余命を忘れること
と、書いても、忘れることはないのですが・・・・・、
でも、人生とは、そのように思うと、そのようになる、私はそう思う一人です。
いつでしたか、もう「怒る」のは止めようと誓いました。
でも、それからも沢山の「怒り感情」と出逢いはしました。しかしその都度、こう思ったのです。
お前はもう怒らないと、お前自身に誓ったではないかと、お前はお前自身も裏切るのかい?と。
それから不思議なことに、怒りが消えていったのです。何かそんな感情が起き掛けると「約束したよな」と、天の声が聞こえて来るのです。
怒りとは二次感情と言ったのは、確かアドラーという心理学者です。
二次感情だったら、一次感情があるはず、それは何でしょう。
アドラーは言います、それは例えば期待を裏切られた時に起きる寂しさ、何で!!という感情、そして悲しさや苦しみです。
この寂しさや悲しみ、苦しみの心が、必ず怒りの前にあるんだとアドラーは言います。
余命を忘れること、私は余命を伝えられた時、一瞬真っ白となり、次に恐ろしくなり、次にだんだんと怒りの感情が湧いてきました。それは誰でもない、自分自身への怒りだったと思います。
お前が、お前を大事にして来なかったからだと、自分を痛みつけるのです。
余命を忘れること、私に取ってこれは、自分を痛みつけることを止めることに他なりません。もっとそのままの自分を愛そう、生きている内に愛さなければいったいいつ俺は俺を愛せるのか、そう強く思いました。
寂しさ、哀しみ、苦しみ、それらを全部飲み込みながら、己を愛して行こう!!、そう誓った一日でした。
失礼しました。
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