水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

特別な喪失感

喪中葉書が届く季節と成りました、当然ながら年齢と共にその数は増えます。


昨日、その内の一通に釘付けと成りました。そうか、亡くなったんだ、そうかと・・・、


私は彼と共に過ごした、50年くらい前を思い出して居ました。


そこは大きな学園の給食を司る、大食堂の厨房でした。毎日朝昼晩と、1000人近い生徒さん達が、食事をしに来ます。


私は喪失感を胸に抱きながら、東京を離れて、千葉にあるその学園に就職したのでした。いわゆる待遇は最低でした、でも私には文句を言う体力も発想もなく、ただ働ける所がある、それだけで良かったのでした。


私が働き始めたのは今まで経験をしたことのない厨房という職場で、働ければ何でも良いという私の考えが、根本から間違っていたことは直ぐに察しました。朝は5時から、夜は八時頃まで、労働基準法は何処に、なのでした。


この話は、長く成りますので、いつか書き込むこともあるかと存じます。このような職場で私が大きな影響を受け、また忘れられない人となったのが、中村さんでした。



年齢は4歳上の26才でした、この年齢の4歳は大きな差で、そして中村さんは調理師・管理栄養士で、厨房のトップでした。中村さん、通称熊さん、夜の寮のリーダーでも有りました。


ある日私が寮でうだうだしていると、外からどう見てもヤンチャな青年がどかどかと入って来ました。私しか寮にはおらず、何の用ですかと問うたのですが、何だ貴様は!!と、
私の胸ぐらをつかみ、殴りかからんとして来ました。


その時、熊さんが外から帰って来ました。その情景を見て走って寮に上がって来ました、そして熊さんは有無を言わさず、そのヤンチャ青年を外に放り出しました。その青年のおどおどした様子は今でも忘れません。


熊さん、見た目はガッツ石松、大きな鍋を一人で運ぶ力、こんな人に睨まれたら大変だと思いましたが、妙に私にはやさしかったのでした。


仕事も沢山教わりました、包丁の研ぎ方から、刺身の切り方、出汁の取り方、オムライスの卵の被せ方まで、本当色々教わりました。



これは冗談抜きに本当に有った話です。


中村さんが、出汁を上げといてと、私の同僚に指示を出しました。


何も知らない同僚は確かに出汁(200人前くらいの出汁汁)を上げたのでした(カツオ節です)。そして同僚は気を利かしたのか、鍋の汁は全部捨ててしまい、綺麗に鍋を洗ったのでした。


中村さん、戻ってきて、その光景に本当に驚いたのです、何が起きたのかも分からなかったのです。鍋が綺麗になっているでも、出汁そのものはどうしたのかと、疑問だらけです。


出汁はどうした!!


汚いお湯は捨てました!!と、彼


馬鹿野郎!!と、彼は頬を打たれたのです。でも、それだけでした。


彼は、いろはのいの字も知らず、その知らない青年に仕事を指示した、それを中村さんは反省したのでした。



思い出せば、きりがありません。あの殺されても死にそうにない熊さんが死んだ、私は喪中葉書を見ながら震えました。この所疎遠でした、それはそれで仕方のないことですが、謝る私が居ました。


疎遠でも、何処かで元気に生きていらっしゃる、年賀状を見る度に、お世話になりましたと年賀状に向かって挨拶もして来ました。でも、亡くなってしまった、この喪失感の大きさに私は、叩きのめされました。


特別な喪失感に襲われた私、もし自分が逝った時に、妻や娘や息子は、どう受け止めるのかと、考えることも有ります。しかしこれだけは、心の準備が出来ることでは無いでしょう。


熊さんが逝った、ではあの人は、あの人はと、次々と当時の仲間の顔も浮かんで来ました。お線香を上げに行きながら、中村さんの近くに住まう、仲間たちに逢って見たいと思いました。


失礼しました。