水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

箱根駅伝に想う

今日三日は、復路から始まりました。


箱根芦の湖からスタートしたトップの東洋大学、30秒差でスタートした青山学院に坂の途中で抜かれ、結果、小田原中継所では、一分近い差と成りました。


今現在も、疾走中です。


この中継の合間合間に、箱根駅伝の先輩達のコメントが入ります。そのコメントの中に、こんな言葉が有りました。


自分はトップでタスキを受取ったのですが、背中を追って来る二位の選手のひた走る気配を感じ続け、ついに抜かれてしまったのですが、その時の恐ろしいような気配は、何十年過ぎても忘れることは無いです、と。


魔物に追われているような、鳥肌が立つようなあの気配、何とおぞましいのか、その感覚は忘れません。



駅伝という競技は、日本独特のものらしい。外国にはないのですね(しっかりと検索はして居ませんが)。


この抜かれる!!と思う時に彼は、何を思ったのか・・・・、


これは想像ですが、責任、仲間、歴史、そして自分がこれまで努力して来たことへの想いなのかと感じて居ます。



ここに人生が凝縮しているとは、誰もがそう感じるでしょう。


昔昔、中学の同級生の女子、卒業後の行方が分からなくなっていたのですが、何十年も過ぎた頃に連絡が有ったのでした。彼女は、栃木の山奥に住まっていました。ある有名な陶芸家の夫人となって。


私はクラス会に参加した彼女に、その人生の一遍を聞きました。彼女はドロップアウトして東京を見限った、そしてあちこち働きながら放浪のような日々を送っていた時に、運命的な出逢いが有ったのでした。


それは、陶芸家を夢見て居る青年だったそうです。その彼との生活を彼女は、良い思い出として語ってくれました。


二人が住み始めたのはそれこそ山の中の掘立小屋だったそうです、毎朝水を谷に汲みに行く、その上り下りも今の彼女にとっては良い思い出なのでしょう。


陶芸家となって芽が出ることなんて、ほんの僅かです。まして彼は、独立独歩で、どこにも所属はして居なかったのです。


その彼との山奥の生活のことは、それは厳しいものでした。水汲み、それを使った炊事洗濯、電気ガスも来ていないその日々を明るく語る彼女の目は、キラキラとして居ました。



彼は今や、三越で個展を開く程の陶芸家になっていたのでした。



これは思えば、何十年も走り続けて来た夫婦の人生です。家族からも見放されながら、自分の意思を貫いた彼女、とてもそんな生活は送れないと思わせる日常には、彼女の強い決意が感じられて成りませんでした。


50年走り続ける箱根駅伝は有りませんが、タスキを繋いで来た歴史を思えば、その長さは計り知れません。


恐ろしい魔物に抜かれるような想いをした青年、その経験はその後の人生に何をもたらしたのか、それは彼にしか分かりません。



この二人の人生、共通していることは二人とも、己に負けることは無かったことです。


己に負けない、簡単なようで難しい、いや非常に難しいことです。



このたった一つ、己に負けないことを経験する為に、人生は有るのかと思った、正月3日でした。



失礼しました。