意味を越えると見える 人生の素晴らしさ
前回のブログで、私の考えを申し上げました。そうしたら(死は全てを無に帰す)、今の人生で「善を積む」意味なんて無いじゃないかと言うのです(それは誰でしょう(笑))。
善を積むとはどんなことでしょう、それは多分、良い心で日々を過ごすことに他ならないと思って居ます。ではその良い心とは、どんな心でしょうか。
なかなか言い方は難しいですが、自己犠牲の精神でしょうか。犠牲という言葉は好きでは有りませんが、自己中心ではない心、自分の損得を第一と考えない心、とも言えると思います。
私は、多分このような心で日々を過ごしているであろう先輩をたった一人知って居ます。そしてその人を、その人生を垣間見る度に思うのです。
柔らかいなあって・・・・。
人生が、丸く柔らかい、どこにも引っかかる所がない(人間ですから完全なんて無いですが)、そう強く感じています。
私達の人生、この世の人生は今生で終わります、その後が無いのでしたら、この世で良い心を以って過ごすことに何の意味があるのでしょうか?、との問い。
でも、ここで思うのです、意味があるからそうする、意味が無いならそうしないという選択の生き方の限界をです。
つまり、この選択の生き方ではたかが知れている、のです。私自身がそうですから、これは自信を持って言えることです。この選択の人生では、真の思いやりという優美な世界を知ることは出来ない、これは確かと思います。
もう意味なんて良い、意味があろうが無かろうが、この道を進むんだという決意が第一に必要ですね、これ誤解のないように、自分に言い聞かせているだけですので。
私は、この先輩が観ているこの世の景色を知りません。私が見えている景色しか知らないので、知り得ることは出来ません。
先輩は、勿論、この世で善を積むことの意味なんて、考えたこともないでしょう。ただひたすら目の前に苦しんでいる人、哀しむ人に手を差し伸べているだけなのです。
私はこの先輩が観ている景色を、一度は観て見たいと願っています。でもそれには、損か得か、どちらの人生に意味があるかなんて、考えて生きている「ステージ」を捨てねば成らないでしょう。
でももう無理かな、今生はここまで、また何処かで生まれたなら、丸く柔らかい生き方をと思うのでした。
人生の意味を越える生き方、そこに今生の人生の素晴らしさがある、決して来世にあるのではないと、強く思うこの頃です。たった今、自分の目の前で展開されている景色、そこに人々のやさしさを感じるなら、それしか要らないのだと思いました。
失礼しました。
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