あるクリーニング店の閉店
これはネットに出た記事です。アイロンを置こうと思ったとの挨拶文が話題になったそうです。以下は、その閉店文です。
御礼
第一クリーニング商会先代であるおじの元に 鹿児島から一人、電車を乗りつぎ出て参りました。
十五歳の時です。
無器用なもので 他の事は何ひとつ出来ません。
只々、この仕事をひたすらに続けてきました。
人生は、あっという間ですね。
今年で八十歳になります。
この辺りで長年の相棒のアイロンを置こうと思います。
お陰様でまだまだ元気でありますので 残りの人生 家内と二人、楽しんでいこうと思います。
長きに渡り当店を御利用頂き、ありがとうございました。
心より御礼申し上げます。
第一クリーニング商会 古江勇雄
平成三十年 三月 三十一日
☆昔のプロ用焼アイロン(通称焼ゴテ)です。これはサーモスタットがついているのでそんなに古くはないでしょう。その以前のは(写真がないです)、水を掛けてジューッと言う音を聞いて、温度が分かったとのことでした。
私は、この文を読みながら、涙がこぼれそうになりました。他人事ではないからということと、父を思い出したからです。
父は、群馬県の高崎から12歳の時に、神田のクリーニング店に丁稚奉公に入りました。この閉店文のご主人は15歳ですから、それよりも三つ若く、小学校卒業で丁稚に出たのでした。
いわゆる食い減らしというもので、貧しかった農家では良くあることでした。父は奉公を続けて26歳の時に、独立を許されました。それが昭和9年で、東京は田園調布に店を持ったのでした。
この会社、創業86年を迎えております。
父は、クリーニング店を開くなら、お金持ちが住んでいる所でなくては成らないと、渋沢栄一翁が開発したお屋敷町を狙える場所に店を構えました。当時クリーニングは白洋舎しかなくそこに父が参入し、競争が始まったそうです。その話は父の生前に良く聞かされました。
山坂の多い田園調布の街を、自転車に籠を載せて廻るのです。足は競輪選手のようになったと自慢して居ました。
父は、アイロンを持ちません、アイロンは父の兄が持ち、技術を支えて居ました。
この閉店文からこんなことを思い出して居ました。いつも今でも思います、12歳で丁稚奉公、大変だったろうと、母恋しだったろうと、でも父は強かったですね。
失礼しました。
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