水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

この世の理不尽さを越えて

さくらももこさんが亡くなったと聞いた時、何故?と思ったのは、もっと先に死んでも良い人が沢山いるじゃないかという、全く馬鹿な考えからでした。でもそれがいかに浅い考えか、それはいつも、私の思い出が教えてくれています。


思い出して居ます、今から72年前の春、私の兄は七歳でその命を奪われました。トンボを追いかけて夢中になり、東横線の踏切に入ってしまったのでした。


私はまだ生まれて居ませんので、これは父から聞いた話です。母は7歳の遺体を離そうとはしなかった、でも泣いても居なかった、あまりの悲しみと苦しみに、息をするのさえ忘れているようだったと。




世の中で一番悲しい出来事は、自分より先に子供が死ぬことだと言います、それも七歳の子供を亡くした母は、しばらくの間、呆けていたと聞きました。何故!!などと、問うような発想も無かったでしょう。


母をどんな言葉も説得は出来ませんでした、そこにどんな物語を付け加えようとそれは時間の無駄した。こういう時に母に寄り添って?来たのが、宗教でした。


子供はこういう役目でこの世に生まれて、あらゆる罪を背負って先に逝ったのよ、あの子を悲しませないでという言葉、母には、全く無意味でした。


母の周りには、沢山の新興宗教人がおりました。とっかえひっかえその人達は、母を囲みました。しかし、母はそのような言葉に耳を貸すことは無かったのでした。


ただひたすら、自分より先に逝ってしまった我が子を胸に抱いていたのでしょう。



その数年後に、私は誕生しました。


私が私を自覚したのは、幼稚園の入園面接でした、何故かその場面が最初の記憶でした。
私は常に、隣に座っている母を見て居ました。優しい母、私に何かを重ねているような母だったかも知れません。


園長先生の前で私は、客車の絵を描きました。


君は絵が上手いんだねえと、私の絵をべた褒めした園長先生の言葉に母は、今までに見せたことがない笑みを浮かべていたのでした。


何も分からない私、でも、母が笑っている、そのことだけが私の幸せでした。


母は癒されたのでしょうか、それは分かりません。この世の理不尽が母を襲ってから7年母はすでに前を向いて歩き始めたのかと、今70歳を迎えた私は、やっと思い起こしております。



さて、馬鹿な私は、私の身体を巣食っている癌に、いさむと名前を付けました。いさむは、電車に引かれて亡くなった兄の名前です。毎晩お腹をさすりながら、いさむ兄と会話しようとしている私です。


その度に思い出すのです、母の苦しみ悲しみを、そして、今は多分あちらで二人で思う存分遊んでいるだろう、兄と母をです。


失礼しました。