敗戦処理と人生会議
ある、志の高いお医者様、そのお医者(以降は彼)が末期医療に生涯をささげるきっかけとなった出来事、それがこんな言葉だったと述懐されて居ます。
君は、そんな敗戦処理の医療に進みたいのかね、と。
こんな言葉が返って来たと、彼は、自分の親たちが、この上司の言う敗戦処理の犠牲になって来たことを思い出すのです。
敗戦処理、どうせ死に行く患者の医療に携わることを、そのような言葉で表現されている、裏側の言葉ですね。
彼は、新しい発想を持ち、挑戦を開始したのです。
それが「人生会議」、末期の患者さんが残りの人生をいかに豊かに過ごせるか、それを患者と共に考えて行けるような仕組みを作って行きたい、そう考えたのでした。
末期医療を変化させねばと、末期の患者さんと、医者と、そしてカウンセラーのような人と組んで、会議を開くのだと。
このニュースは、昨日のラジオで流れました。
面白いなあ「人生会議」かと、私は彼にエールを送りました。
所詮は敗戦処理に違いない、でもなあ、そういう言葉が平気で出るようなその上司の医者の人生は、自らを敗戦処理しているようなものではないかと感じます。
人はおろかで、自らが発している言葉の低さにも気づかないのです。
こんな末期医療が、隅々まで広がれば良いなあと、配達の途中に見上げると、散りかけた梅の花たちが、笑顔をくれている気がしました。
失礼しました。
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