水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

母を抱きて(死ぬる時も、産まれる時のように)

人は、産まれる時も死ぬときも同じだと、母親に添い寝して看取った男性の言葉です。


この話は、ネットでのニュースなので、もしご興味があるお方は検索をして下さい。


今回は、母親に添い寝する物語が主では有りません。


人は、産まれる時も死ぬときも同じだ、この所です、ここに妙に引かれました。


この男性は、病院で、気力も体力も衰えた母親を、自宅に連れてきて、介護を始めたのです。そうしたら、母親は顔色も良くなり、話も出来るようになりました。




でも彼は、母は決して元気になったのではなく、死への準備を整えたとそう、理解したのでした。


彼は添い寝しながら、背中をさすり、腕をマッサージするのです、そして母の頭を自分の膝に載せると母は、安心したように眠りにつくのだと。


そうやっている内に彼は、母の死を感じたというのです、母は間もなく旅立つと、それが分かったというのです。


そして彼はこう言います、人は産まれる時も死ぬときも同じだと、ただ現代の環境が、そういう根源的なことを忘れさせてしまったのですと。


多くの人が病院で死にます、死ぬ本人がどんなメッセージを訴えたいのかは、ずーっと一緒にいる訳ではないのでわからないのです。


添い寝は難しいかも知れませんが、相手の体温を温もりとして感じる添い寝はまるで、母親が赤子をあやすごとくでしょう。


母親は赤子が産まれるのが分かるのかと思います、ああ、間もなく我が子が誕生する、早く観たい、早く産まれていらっしゃいと、心で避けぶのでしょう。


そして、死ぬときもイコールならば、人の生死は、何とドラマチックなものでしょう。


私達は、必ず死ぬ訳です、でもその死に行く舞台が、産まれる時のようなシュチュエーションで合ったなら、何と安心なことかと、思わせられました。



しかしなあ、息子と添い寝は適わないかも、娘では気恥ずかしいし、でも既にもうろうとしているだろうから、構わないか、なんて。