誕生祝い
*真鶴港の夕景です。
妻と娘夫婦そして息子が、誕生会を開いてくれました、嬉しかったです。この歳になっても、そういう気持ちを引き出されました。
幸せだなあと思いました、自分の体が蝕まれ後どれくらいかと考える日々が一瞬ですが消えたような気持ちでした。
小学校六年生のある日、祖母が他界しました、その姿を見ながら幼稚園のあの日を思い出しながら後悔にさいなまれていた私、その時に本当に人は死ぬんだと何故か強く思った記憶が有ります。
それから50数年、余り死を身近には感じて来ませんでした。しかし、今は全く違います初めて引き算の人生を知ったのです。後どれくらいかと思いながら暮らすということです。
司馬遼太郎の「空海の風景」を読んでいたら、空海は、自分はいついつ死ぬからと弟子たちに伝えていて、全くその日に入滅したと有りました(すみません、記憶です)。人は、自分はこの日に逝くと強く思い念じながら生きるとそれが現実になると、書かれた本も有りました。
そんな立派な生き方は無理、私は死ぬまで何も整理も出来ずに、おどおどと生きるんだろうなと、死ぬ時は苦しくないのかと、苦しいのだけは勘弁して欲しいなどと、願っているんだろうなと。死ぬまでに計画的に生きるなんてこと、長い旅に備えて身辺整理をしていくことなんて、やはり全然出来ないなと感じて居ます。
しかし今、たった一つ集中していることが有ります、私より瀕死の状態である会社を再生させること、これに全力投球です。そして、これって有り難いなと思う時も有ります、もしこの瀕死の会社が無かったら私はぼーっとして、何も手に付かない人生を送ってしまうのではないかと危惧するからです。
妻と子供たちと会話しながら、心の中ではこんなことを思っていた私です。本当にありがとう、そして、ごめんねと、弱いお父さんを許して欲しいと、心で謝って居ました。
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