水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

親父は喜ぶだろうか

善悪、良し悪し


物事の判断、船の舵をどちらに切るか


さあ、どうしたら良いか、と。



会社が創業して、12年目くらいだったろうか


殆どの職人さん達が退職し、二人の職人さんが残りました。


工場はだんだんとパートさん中心となって行ったのです、
でも、一人の職人さんはどうしても、自分のペースを変え
ませんでした。


そのペースではやり方では、その仕事をパートさんに伝えて
行くことは出来ません、私は彼に、もっと簡素にやさしく
仕事を整えられないかと何度も提案しました。


彼はイライラを募らせていたでしょう、青森から東京へ
15歳で就職したクリーニング会社、そこで教えられたこと
をずっと、続けて来た彼でした。


変えられるなんて、出来ませんね、でも変えて貰わねば
成らない、それも、自らの学びと自らの人生の為に。



それは高い高い壁だったかも知れません。


ある日の朝、私がいつもの通り、おはようございますと彼に
挨拶をしながら、どうですか、パートさんに教えられるよう
な方法が出来そうですか?と話しかけました。


その言葉が、イライラの頂点を越えたのです。


いつも彼が付けている白い前掛けを物凄いスピードで外し、
私に投げつけたのでした。


辞めてやる!!


そう怒鳴りながら彼は、そのままの姿で(長靴を履いて居ました)
帰って行きました。


(後で、もう一人の同僚に電話が入り、彼の残った荷物は届けられ
ました)



その一連の騒動の中私は、いつも親父の顔を心に浮かべて居ました。


特に彼は、50年程前に、親父が現役だった頃に、青森に迎えに行った
最期の少年でした。


ご両親から、腹いっぱいご飯が食べられますか?と聞かれた親父は、
ええ、腹いっぱい食べて貰いますよと、答えたのでした。



親父、ゴメン、彼が辞めちゃったよ、本当にゴメンと


これで良かったのかな、もう彼は働いているだけで辛かったんだと思うから


親父から返事がある訳も有りませんが・・・・、


★親父が昭和9年に創業した、田園調布の銀杏並木です。左の軽四輪は、今の私共の宅配車です(笑)



それ以来私は、何か困った時、判断に迷った時、こう思うように
なったのです。


これで、この方法で、この判断で、


親父は喜ぶかなあって、


法律的な善悪でもなく、世間の善悪でもなく、友人の助言でもなく


私は


物事の判断を、親父は喜ぶだろうか、と、心の問いに委ねるようになったのです。


勿論、返事は有りません、でも、分かるのです。


これをしたら親父は喜ばないと、決して喜ばないと



そしていつも同時に、12歳で箱車を押しながら神田(*)の住宅街を
周っているであろう少年の親父の姿が、観たこともないその
姿が、浮かんで来るのです。


(*)神田は親父が奉公に入った最初の職場でした、箱車はクリーニング品を
  入れる大八車のようなもので、12歳の少年には過酷なことだったと思
  います。