水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

人間理解という修羅場 2

この頃強く思うこと、それが表題です。


人間理解と書きました、それは誰でもない、


自分自身を自分が「理解」するという馬鹿なことであり、
それはネバーエンディングストーリ―のような終わりの
ない物語のよう、と。


この私達が立っている大地、つまり地球自身のことを
一番分かっていないように、己への旅はおそらく生きて
いる限り続くのだろうとは思うのです。


自分を自分が真剣に理解する、これは修羅への旅なのかも
知れません、時折表に現れる感情一つを取っても、それが
何故現れたのかを理解できない、


そんなことは日常茶判事なのです。



私は自分のノンポリ人生に区切りをつけたく、50歳の時に
別のご縁も得て、起業しました。


これはまさに修羅への旅の始まりでした、それがどんなに困難
なことなのかは想像は出来たのですが、その襲って来た現実は
それはそれは修羅場だったのでした。


私のような意志薄弱の人間は、外圧という力でこじ開けられる
しか、自分の心を外に現すことは出来ないのでした。


まるでそれは嵐が表戸を揺らすようなこと、津波が家ごと流して
しまうようなことに似ていると思います。



自分自身が、沢山の外圧に対して、どのような態度を取るのか、
どんな風に相手に寄り添うのか、寄り添えるのか、それは
困難を極めました。


その起業した新会社の目的は、旧会社(廃業)に長年働いて
おられた、クリーニング職人さん達の人生に関わることでした。


勝手に会社を潰しやがって!!という怒りに向き合うことでした。


それと同時に、経済の継続でした、その底を支えたのが社会保険
の継続加入、それをすることによる老後の人生への少しの
安心を提供することでした。



勝手に会社を潰したのは、お前たち兄弟の放蕩だ!!と怒り
心頭の彼らを、私は向い入れました。


その時既に、前の会社を廃業に追い込んだ兄は他界してしました。
借金取りの嵐の中で脳梗塞を起こし帰らぬ人となったのでした。



この物語は、長く長く続きます、本題から外れがちに成りますので
今日はここまでとさせて下さい。


本題は、人間理解の修羅場です、それも自分が本当の自分を浮き彫りに
させて、それを受け入れていくという途方もないことです。



50歳を過ぎての起業、それだけでも冒険だったのですが、
それに参加された彼らは、十分に私自身を浮き彫りに
してくれたのです。


あんたさあ、俺たちを雇って気分が良いんじゃないの?って


真っ先に給与の減額ってなんだよ!!、あんたの給与から減らしたら
どうなんだい?


どんだけ使ったんだ前の会社のあんたのお兄さん、何億かい、何十億
かい、沢山女が居るって聞いたよ、どうなんだ!!ああ、


俺たちを受け入れていい気になっているんじゃないよ!!



こんな言葉の嵐の中、私の心の中は、なんだ、そう思うならこの会社へ
来るなよ!!って囁くのでしたが、


いやそうじゃない、この言葉の嵐を聞く為にスタートさせたんだと
思い直したのでした。


彼らは親父が田舎から頼まれた少年達、そして就職列車に乗って
上野についた少年達も、昭和20~30年代のあの物語の主人公達
でした。


それが東京のクリーニング店へ15歳で就職して来たのでした、その時
私はまだ5歳くらいだったのです。


私が50歳で起業した時、彼らは60歳前後でした、その職人さん
達がこぞって新会社に参加したのです、総勢で13人おられた
のでした。勿論、不参加の方もおられたのです。



それが、それこそが、我を救う道だと私は信じたのでした。


ここまでお読み下さり感謝申し上げます、今朝はこれで失礼します。