水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

ともえ幼稚園って? 私は「変な子」だったと

私の記憶の幼稚園、その前はともえ学園と言っていたらしい


母と一緒の面接?、そこで私は運動場に置いてある
客車の絵を描いた、これも記憶、


園長先生は、君は絵が上手いんだねと言ってくれた、
舞い上がった私の、これも記憶、


母の笑顔、その笑顔も記憶、


黒柳徹子の恩師・小林宗作は美輪明宏にもリトミックと自信を与えてたと、
ネットからの写真です。真ん中にいらっしゃるのが園長先生ですね、
後ろの建物は学園ですね、小林先生、お名前初めて知りました(笑)




これは今から、68年位前の記憶なのですが、
それを客観的に検証はして居ませんでした。


何が言いたいのか?って、そうなんですよ、このともえ幼稚園
出身の同僚が居ないんです!!


別に特殊な場所にある訳ではない幼稚園、自由が丘の片隅に有った幼稚園、
普通に園児も居たような、普通に普通にと



以前の小学校のクラス会、幼稚園の話になったのです。


俺は小羊だったよ、私は九品仏ねと、俺は行かなかったと
自由が丘の魚屋の息子、まあどうでも良いのだが、


野菜党君は?とマドンナ(彼女は、私シュチュワーデスになるのと
なってしまった女性、それ以来字名はマドンナなのです)


俺はともえ幼稚園なんだと


一瞬全員が黙り(気のせいか)、そうなんだとマドンナが
話題を変えたのです。


それを深く聞くこともなく(今度聞くかと思いながらコロナで集まることもない)
時は過ぎています。



兄弟は姉も含めて3人、誰もともえには行って居ないのでした、
それを深く考えることも無かった私です。



そうなんだろうなあと勝手な解釈を今はして居ます。


母は苦労したんだろう、仕事で苦労し、税務署を騙すのに苦労し(笑)
そして私に苦労したんだと。


何処も受け入れてくれなかったこの子をどうしようと、
そういえば誰でも受け入れてくれる幼稚園があると
聞いたわ(想像です)と、私を連れて行ったのだと


一言で言うことを聞いた私、それが冒頭の園長先生の言葉でした。


母は多分、本当にほっとしたのではと、今はそう思うことに
しています。


多分物凄く変な子供、当時発達障害なんて言葉もなく、
そういう子達は、ただただ変な子と名付けられていました。



黒柳徹子さんが通ったのも、このともえ幼稚園の前身のともえ学園
だった。彼女を受け入れたのもこの園長先生でした。


変な子の代表でしょう、彼女はと、私は勝手にそう思って居ます。



私は変な子と、全然思っては居ませんでしたが、きっと
そうだったのでしょう、良く育ったと、でも社会には
適応出来なかった私、


その変な子は、そのまま今はその変さを隠さない、変な経営者
となって居ます。


まともって何だろうって、未だに分からない私です。