水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

思い返せば、面白かったなあ

トモエ学園も風変わりな幼稚園(戦後幼稚園となった)でしたが、次に私が進学した八幡小学校も、今から思い返せば、面白い小学校でした。


それはまるで、前線のようなと言えば良いのか、下から低気圧、上から高気圧、それがせめぎ合っているような学校でした。


小学校は、奥沢という街にあり、今は立派な住宅が並んで居ますが、私が通った当時は下町と田んぼと畑状態でした。その隣の自由が丘も、大いに下町でした。その二つの街の商店街の子供共が、通っていたのが八幡小学校でした。


☆八幡小学校、今はこんなに立派です、私の時に創立80余年でしたから今は、140余年ですね、校歌にこの年号が入るのですが、大いに字余りでしょうね(笑)



昭和20年代の自由が丘辺りの写真です。



この下町の連中は、親の手伝いで休むなんてことは当たり前で、当然成績も振るわず、みな貧乏でしたので、服は継ぎはぎだらけ、ひじは鼻汁を拭いた後でピカピカでした。この連中が、言わば低気圧で、学校の北側から通って来ました。


もう一つの人種が、学校の南側に住まいする、お屋敷町の子供達でした。学校のすぐ南裏は、玉川田園調布という街で、一件の大きさが何百坪という邸宅が並んで居ました。

☆田園調布の銀杏並木です、この両側にお屋敷が広がって居ました。



当時、そのおぼっちゃま、お嬢様達の一部は、何故か私立ではなく、八幡小学校に通われていたのです(何故か敬語になります)。


これは思い出しても面白い光景で、継ぎはぎだらけの服の悪がき達と、毎日違うお洋服の子供たちが遊んでいる姿は、なかなかの景色だったなあと思い返して居ます。


何もかもが違いました、さあ明日は、家でみんなが遊んでいるオモチャを持参してねと、担任の先生、は~い!!と返事は良かったものの、下町の連中、オモチャなんぞは何もなく、あるのはベーゴマ、メンコぐらい。


後は釘さしとか、チャンバラの棒くらいしか持って居ない訳で、さあ、どうしようと、お姉ちゃんのお人形を持ってくる始末でした。


でも、山の手のお子様は違いました。それを私は今でもはっきりと覚えて居ます。


彼が持ってきたのは、無線誘導のバスでした。大きさは40センチくらいだったか、そのバスが無線で動くのです。これには先生も驚いたのでした。


昭和30年前後に、無線のオモチャなぞ日本には有りませんでした。従ってそれは外国製です、いくらくらいのものか、それは分かりません。下町の悪がき達は全員自分が持ってきたものは引っ込めて、そのバスに群がったことは言うまでも有りません。


また、小学校5年になった頃のこと、先生も忙しいらしく時折、先生不在の授業が有りました。その時には、山の手の○○君が先生に指名されて、授業を行いました。山の手の彼らは既に小学校のカリキュラムなどは終わっていたのです。



山の手も下町も 下町も山の手も 
東京恋しいや 愛しや東京


こんな歌謡曲が有りました、吉永小百合でしたっけ、本当にこの歌詞のような学校でした。低気圧と高気圧が混ざり合う所、そこには雑多な連中と、高尚なお子様たちが、でも自由に遊び、交流出来た空間が広がっていたのでした。


貧乏人とお金持ち、本来ならイジメも起きそうですが、余りの違いに、そういう発想すらなかったのです。


○○君は、東大の教授になったよ、○○君は、あのC・・・Nの社長だよと、クラス会に集まるのは殆どが下町の低気圧ガールとボーイばかりですが、何だか同級生が偉くなると、自分も偉くなったような錯覚を覚えたのは、ついこの間のことです。


こういう光景、今は皆無と思います。そういう意味では戦後のどさくさは、平等という文化を招いたのかも知れませんね。


失礼しました。