水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

逸話「天国泥棒」と葡萄園の例え話から

キリスト教の逸話の中に「天国泥棒」が有ります。


さんざん悪事を働いたいわゆる罪人が、死ぬ間際に「洗礼」を受けて天国に行けるということに、生まれて直ぐに洗礼を受けその後もキリスト教の教えにそむくことなく生きて来た信者が、前者のことを「天国泥棒!!」と罵りました。


神様、こんな不平等が有ってよいのですか、彼は何故天国に行けるのですかと、神をも呪うのです。



この話を聞きながら、どうなのかなあと思いました。


どっちもどっちだろうと、しめやかに真面目に、真摯に生きて来た人なら、自分以外の
人達がどのような運命になっても、それを妬むことはしないよなと思うからです。



そしてここでもう一つ思い出すのは、葡萄園の例え話です。




天 「先にいる多くの人が後になり、後にいる人が先になるであろう。


 天の国は次のことに似ている。ある家の主人がぶどう園で働く者を雇うために、朝早く出かけた。彼は一日一デナリの約束で、労働者をぶどう園におくった。九時ごろまた市場に行ってみると、何もせずに立っている人たちがいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払おう』と言った。


そこでその人たちはぶどう園に行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろに出て行って、同じようにした。また五時ごろ出て行ってみると、他の人たちが立っていたので、『なぜ何もしないで、一日じゅうここに立つているのか』と言うと、彼らは、『だれも雇ってくれないからです』と答えた。そこで、主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園にいきなさい』と行った。


夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に、『労働者たちを呼んで、最後の組から始めて、最初の組まで賃金を払いなさい』と言った。そこで午後五時ごろの組の人たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。終わりに最初の組の人たちが来て、それより多くもらえるだろうと思っていたが、彼らも一デナリずつもらった。すると、主人に不平をもらして、『最後の組は一時間しか働かなかったのに、あなたは彼らを、一日じゅう労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じように扱われる』と言った。


主人はそのうちの一人に答えて、『友よ、わたしはあなたに何も不正なことはしていない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。あなたの分を取って帰りなさい。わたしはこの最後の人にも、あなたと同じように支払いたいのだ。わたしが自分のものを自分のしたいようにするのが、なぜいけないのか。それとも、わたしの気前のよさを、あなたはねたむのか』と言った。


このように、後のものが先になり、先のものが後になるであろう」の国は、こうやって後の者が先になり先の者が後になる。



長い引用でした。この話、現代の労働基準法に当てはめたら、逮捕かも知れません(笑)


この逸話はいったいなにを教えようとしているのか、今でも解釈は様々だそうです。


天国泥棒で言えば、まさに天の国は「先にいるものが後になり後にいる者が先になる」この逸話を地で行っている話ですね。



でも、このようなことって、私達の人生には沢山有りますね。その都度、怒っていても少しも生産的ではないでしょう。


私は、何か、心が揺れ続けるような出来ごとに出逢った時に、ふと、この逸話を思い出します。そして思うのです、人生って相対的(人と自分を比べるような)な生き方考え方では疲れるなあと。


この天の国の逸話、皆さまもお考え下されば嬉しいです。



失礼しました。