水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

たわいのない会話

玄関の脇にゲジゲジが居たわ、とか、掃除機のうなる音や洗濯機が廻る音も、家庭での日常の音は全て「たわいのない会話」だろう。



たまに友と逢い、楽しい時間が過ぎて行く時にいつも思う。それは過ぎて行く時間なんだと、どんなに楽しい一時も、過ぎて行くかけらのような時間だと思う。


家庭での日常の音、それは珍しくも面白くもない、聞きなれた音達です。


☆以前に掲載しました、30数年前の妻と娘です。娘は産まれた時1600グラムで、結構大変でした。よくもまあ大きくなってくれました。



朝目を覚ますとそれは聞こえて来ました、子供達が生まれて暫くは、床板を鳴らす音が聞こえて居ました。突然、弟の泣きだす声にそれを叱る妻の声が重なる、それらのたわいのない会話は、永遠に続くのではないかと思わせられた。


しかしいつの間にか今は妻と二人の家で、どこからゴキブリは入って来るのだろうと、階段の手すりをいつの間にか掴むようになった妻が、これでこの手すりは綺麗になるわ!!とのたまう日々です。


子供達が外に出てから、何年になるのか、そんな年月も忘れたように、そして当たり前のように、ずっとそうであったと思うように妻と私の「たわいのない会話」が続いている。


だんだんと同じことを言うようになった妻、それに気付いている私はそれを妻には言わない、多分私もそうであろうから、妻が私にそれを言わないことを知っているから。


こんなたわいのない日常を、こよなく愛するようになった自分、一つ一つは何でもない詰まらないことばかりなのに、何よりも今は大事に思えるのでした。


たわいのない日常の中の「たわいのない会話」は、毎日毎日繰り返される、それはまるで予測可能な日々なのです。


いわばそれは「40年の繰り返し」、もう10年続けば50年の繰り返し。この目新しさのかけらもない日常の繰り返しこそが、人の心が最も求めている「安心」なのだと思ったのでした。



たわいのない会話や音を聴き、そこに飽きさせない響きを感じた時それは、新たな人生の始まりとなるでしょう。


少なくとも妻には、この新たな「たわいのない会話」の世界が広がることを祈って居ます。



失礼しました。