死はそれほど恐れることではない
むしろ、不十分な生き方を恐れなさい。
独 詩人 ベルトルト・プレヒト
☆ベルトルト・プレヒト、その人です。
この言葉、ムラウチ.コム様の、最後の方に載って居ました。ムラウチ様お借りします。
この言葉が何故か、胸の奥に真っ直ぐ入りこんで来たのです。
死は恐れて居ますが、こればかりは万人に降りかかることで、仕方がないことです。生まれて来たのですから、いつかは召されます。それは、以前からもそう思って居ました。
課題は、後の方の言葉で、果たして自分はこの世を「十分」生きただろうかという問いです。
十分とはどういうことなのかと考え始めるとキリがないので、これはそのまま受け取ることにします。自分が十分と思えばそれで良いのでしょう。
以前のブログにも書きましたが、私は「蟻とキリギリス物語」でいうと、100%キリギリスの生き方でした。みんなが一生懸命働いている時にキリギリスはギターを弾きながら人生の一番大事な時に遊び呆けてる、という物語です。
人間で言えば、若いころから遊びほうけている人達、気が付いたら周りには誰も居なかったという、無責任な生き方です。
私はそれを反省した訳では有りませんが、何かの運命のように50歳で起業をしました。その会社が生まれて20年過ぎました。物凄く早いような、そうでもないような、しかし苦しかったという点では、何物にも比べることは出来ず、それは点ではなく、19年という線状態の苦しみでした。
何故19年の苦しみなのか、正確に言えば18年の苦しみが正しいかも、会社は19年目で初めての黒字を計上、20年目は離陸する飛行機のような状況を迎えました。
しかし、この18年目に私の病が見つかり、その時これは「共死に」かと思ったのですが、奇跡的な回復をしてくれました(病はしっかりと育っています)。
もし、この会社が倒産すると、自分は死にきれない、その想いばかりでした。それは第一に私が死んだ後、妻の住まいを奪うことになるからです。これでは絶対に死ねない!!、毎夜毎夜、うなされたのでした。
長くなるのでこの辺で・・・・、むしろ不十分な生き方を恐れなさい、今この言葉を繰り返し心に終おうとしています。
最悪は免れるかなあ、これが「ホッとする」という心なんだなと、20年間感じたことの無かった「安堵」の世界が今、私の前に広がろうとして居ます。
死ぬのは、仕方がないですね(笑)
失礼しました。
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