一人称の死は 無い
このところ、心が落ち着きません。
良い治療を探しながら、良い治療とは何かと疑問が出るのです。
そうか、私は良い治療ではなく、良い先生を探しているのかと、果てしない旅は続いて居ます。
先生、口が苦いのですがと、先日も訴えました。
〇〇さん、そのこと一つ検査するにも、大変ですよ。それよりも、今の病、命を長らえることが重要なんですよと言いながら、先生の目はいつもパソコンに向かって居ました。
そうだよな、この先生は王道、つまり標準治療を淡々と進めているんだよな、そしてそれ以外の選択肢はないんだ、と、思わせられている、仕方ないなあ、と。
ふとラジオを聞いていると、宗教の時間なのだろうか、こんな言葉が聞こえて来ました。
一人称の死はないんですよ・・・・・、
二人称、三人称の死はあるんです。社会面を賑わしている事故での死、家族に起きる死、これらは一人称では有りません。
一人称、つまり自分自身の死は、自分では分からない、だから死はないんです。
私達に常にあるのは、今生きているこの瞬間だけなんですね。
あまり考えたことは無かったな、自分の死は無いということ、有るのは、今このブログを書いている瞬間の私だけなんだと、何故か腑に落ちたのでした。
大腿骨骨折の手術で全身麻酔を掛けられた時、その瞬間を記憶する間もなく、眠りに落ちた私、一瞬の後目が覚めた私は、ストレッチャーに載せられて病室に帰る所でした。
その一瞬は、妻に言わせたら5時間も、でしたよ。
あのまま目が覚めなかったら、私は、私と言う意識は、どこにも存在しないんだと、ちょっと悲しく成りましたが。
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