幸せについて
昨日、今日と、娘夫婦の鋸南の別荘に呼ばれ、妻と行って来ました。
別荘のすぐ前の、房総には少ない海水浴場です。今は勿論オフなのですが、時折海岸を散歩するカップルが居ました。
夕食は近くの地魚料理の店に行きました、小さな小さな店、親父の自慢話を聞きながら、地元の今朝取れの魚をいただきました。
今日はちょっと口が苦いなと思いながらも、地魚の持っている自然の甘さが、舌を打ちました。
娘と彼は、多分、目標通りの人生を歩んでいると感じます。娘が嫁いだのは23歳、彼は15歳上で、38歳でした。
娘に言わせると、お父さんに似ていると、嬉しい言葉も貰ったのですが、いやこれはそうでは無いなと、直ぐに分かりました。
私は無計画で、行き当たりばったりの人生、計画性がない私を見てきた娘が選んだ相手は、私とは真逆の青年でした。
これが反面教師というんだな、よくぞ選んでくれた、そして選ばれたと私は、心で喝采を送りました。
計画的にちゃんとお金も貯める、そして何年後には別荘を持ちたいと、娘に約束していたようです。
それを娘が賛同したのかどうかは分かりませんが、いつも経済での苦労を強いられていた母親を見ながら、娘は、お父さんは嫌いではないが、酔い越しの銭は持たないという旦那は嫌だ!!と思ったに違い有りません。
そんな彼が、やや計画通りに、15年目に、別荘を建てたのでした。
でも、ふと見る娘の顔に通り過ぎる寂しさは何だろうと、この頃感じます。
娘は、子供を欲しがっていたと記憶して居ます。それは母親の言葉の影響も有ったと思います。
貴女が産まれてきてくれてありがとう!!、これが常の妻の言葉でした。
そして娘自身も、人生の多くの時間を、母親と過ごして来ました。親子ではなくそれは姉妹のようでした。
私のような貧乏では、なかなか相方を幸せには出来ません。世の中何をするにも、お金が掛かります。
でも、幸せって何だろうと思う時、お金だけではないものを感じるのです。
それぞれの幸せについて、は、それぞれ当事者が考え、構築していくものでしょう。それが「幸せの形」を建物のように作り上げるのかも知れません。
しかしそこには、あなたが産まれてきてくれてありがとう!!の気持ちを、埋め込むことは出来ないのだと、思います。
私は死ぬ時に(前に)、贅沢を言えば・・・・、妻と娘と息子に、ありがとう!!と言いたいと願って居ます。もし、それが出来たら、すっと、行けるような気がするからです。
幸せについて・・・、昨日、別荘でふと思ったことです、でもそれは今が幸せなら何でもないことかも知れない、そうとも思いました。
失礼しました。
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