水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

親父のことを何も知らない

以下、少々長いです、私の戯言です。



私は親父が嫌いでした、そのワンマンさもさることながら
いつも母をいじめている、そう思っていたからです。


多分私の兄弟達は(兄・姉)、私よりもっともっと親父を
嫌っていたと思います。


私なんかまだまだ、でした(笑)




先日書いたブログ、あいつさえ居なければ


この典型が、親父の存在だったでしょう。



もっとも親父が居なければ私は生れていないので、大きな自己矛盾ではあります。



かなり以前のことです、親父が入院を繰り返し始めた頃、
たまたま見舞いに来てくれていた親父の旧友でしょうか、
私を見るなり、言われたのでした。


貴方は彼にそっくりだと・・・、


こんな不名誉な言葉、私はいただけなかったのですが、そのニコニコ
顔から発せられた言葉に妙な気持ちにもなったのです。



その頃私は丁度、新しい会社を立ち上げて、進み始めていた頃でした。


苦労ここにあり!!と思われるほどに、新会社を襲い続ける嵐は凄かっ
たのでした。


その新会社のメンバーは、旧会社(倒産廃業)からの出向者が殆どでした。


ある日、そのメンバーの一人に私は呼び止められたのでした、私よりずっ
と先輩です。



ぼそぼそと話し始めた彼、その時既に親父は他界して居ました。


俺さあ、あんた(私は責任者でしたが、呼び名はあんたでした)の親父
に感謝してるんだ、と。


その時既に彼は、老齢年金受給者でした。


俺さあ、年金を貰い始めているんだけど、こんなに貰えるなんて知らな
かったんだよ、田舎の仲間達はみな、国民年金でその額ったら驚くほど
少ないんだ。



そう思い返せば、本当におぼろげなんですが、昭和30年前後に、親父と
お袋が言い合いをしていた記憶が有ります。その頃既に、30人程の、社員
がいました。


その社員達に、社会保険加入を親父は実行した時だったと思います。お袋
は反対でした、何せ、会社が半分負担するのですから。


当時、クリーニング業界でこの新しい国が中心となる保険に入っている業者
は皆無でした、あの白洋舎さえ、未加入でしたので。


世田谷の組合でも親父は馬鹿にされていたそうです、そんなの入ったって、
いつか駄目になったらどうするんだと・・・・。



それから40~50年、当時18歳くらいの職人さん達は皆、会社が倒産し
新しい会社に所属して、不安な想いと、会社を潰した私達兄弟への恨みと、
様々な心が交錯していました。


少ない給料から社会保険か何だかわからないお金が天引きされていてよう、
何なんだあれはと、これくらい制度の意味も伝わらないまま彼らは社会保険
料を納め続けたのでした。



そして年月は過ぎて、受給年齢を迎えたのでした。私は何人もの職人さんと
一緒に社会保険事務所に同行しました。そして手続きは進んで行きました。


その中の一人、上記の彼がぼそっと、私にこぼしたのでした。


私はその時嬉しくて、目には熱いものがこみあげて居ました。



その瞼の中には、あの大嫌いな親父の姿が浮かんで居ました。


俺は親父のことを何にも知らない、今回はほんの一辺を知っただけだな。


子供達に理解されず、社員達からも全く理解されずに、死んでいった親父
でも、親父、みんな心の中では沢山沢山感謝しているよって。



あんたは親父さんにそっくりだ、と。


何が似ているのか私には分かりませんでしたが、今はその親父の想いのほ
んの一端を受け取れたことに、喜びを感じている私が居ます。