水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

居場所

もしかしたら、人によるのかも知れないが、このテーマは
人生最大の課題だろうと、常々思って来ました。


人はこれを失うと、失ったような錯覚だったとしても、それは
生きる力を奪うのかも知れない。



小さな頃、私の家族の食事は、小さな四角いテーブルを6人が
囲むという状態でした。


私は末っ子で、後は兄が二人、姉が一人そして両親です。


私の席は、いつもはみ出された場所で、四角いテーブルの角の
部分でした。


自分でその場所を、トンガリッチョと密かに呼んで居ました。


トンガリッチョ、トンガリッチョと、私は母にトンガリッチョは
嫌だ!!と、訴えていたのです。


兄たちは私よりずーっと身体が大きく、そんなに多くない中央の
お皿に乗ったおかずを、バリバリ片づけて行きます。


トンガリッチョからはお皿は遠いのです、そこはまさに生存競争
の世界、思いやりの一辺も有りません、トンガリッチョから手を
伸ばしても、全然届かないのです。


当然私の食事は遅くなり、兄たちが終わったあとのカスのような
残り物をつっついて終わるのです。


いつかこのテーブルの角ではない場所に座りたい!、それが密かな
私の願いでした。


★ちょっと前に描いた、九品仏の紅葉です。黄色や赤、落ちた葉っぱ同士は、混ざり合い美しいパレットを形成します。居場所なんて、要らないのです。



こうやって人は、その都度の「居場所」を探すのかと思います。


家族の中での居場所、学校の中での居場所、そして社会の中での居場所
と、この居場所は、その人の生涯の課題となって迫って来ます。



私の知人達の多くは、定年退職して居ます。


それは私のような零細企業の親父とは全く違う世界、大きな会社を離れ
た途端、彼らを襲うのがこの「居場所」探しなのです。


勿論、会社勤めの真っただ中でも、年齢と共に味合う悲哀の中で、その
居場所は転々として来たことでしょう。


でもそこには、例え片隅でも、自分の居場所は有ったのです。それは、
家族に対する居場所でも有りました。


しかし、それも無くなった後は、新たな課題を抱えることになります。


家での居場所、この何でもないような、小さな課題がどんなに大きな
ことなのかが、一人一人を襲い始めます。



あの幼い頃のトンガリッチョに始まり、私は(人々は)、その都度の
人生の居場所を探し、ある人はそれを見つけて居座り、ある人はそれ
に失敗する。


会社の帰りに寄る小さな飲み屋の隅から二番目の椅子に、ほんの一時
期の居場所を見つける人々も少なくないでしょう。



あの心理学者アドラーは、人生の悩みは「人間関係」に尽きると書いて
居ます、それ以外には無いと結論して居ます。


その人間関係という戦い?を成就させる作戦場所が、居場所なのだと思
うのです。


庭の片隅に建てられた掘立小屋、男の居場所なんて言われるような陣地、
これがもし、晩年の夫婦円満の秘訣であるならば、そこはもう、トンガ
リッチョ(笑)では無いのかも知れません。