水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

死を見つめる心 最終

岸本氏(以降、彼)は、死をどのように「受容」したのか、前回、文章中から引用しました。


しかし、彼に聞くことはもう出来ませんので、これが受容かと聞かれても、何とも分かりません。でも、大変僭越ながら、余命を宣言された私には、そのように思えたのです、ご容赦下さい。


彼は、この後、10年を生きます。その間に彼が導いた、人生の過ごし方は「仕事」でした。この仕事の意味は多岐に渡ると思います、要は、真に他者の為に生きること、そういうことと思います。でも、これは容易なことでは有りません。



死の時が来れば、その時には、従容として、この世界に別れを告げて死んで行くことが出来るように、平生から生きて行かねば成らないと思うので有ります。もし、そうとすれば、私は、この人生をどういうような心構えで生きて行かねばならないか。それが次の問題になる訳であります。


この中で、生きがいを持って生きることを彼は強調し、自らに激務を課し、がむしゃらに働いて来た自分自身を見つめなおします。


生きがいということは、むしろ、1つの目標を持って、その目標に心を打ち込んで、一筋に進んでいくことの中に有るのだ、ということに気が付いたので有ります。そう気が付いて見ますと、手負いの猪のように、あばれ廻っているだけでなくて、心が、しっかりと、1つの方向に向かってすわっているかどうか、ということが、大切な問題になって来ました。


ここで彼は仕事と向き合います。


目標となるのは、仕事であると言いたいと思います。・・・仕事と言う言葉を、私は、せまい意味の職業とだけに限定しては考えて居ません。・・・めいめいの人間が、自分にあたえられているのもは、これだ、と考えられるような意味での仕事であります。


人間の仕事というものが、一方では貨幣価値に換算されても、他方では、それと平行して、必ず、もっとなまなましい人間的な意味をもっているので有ります。実際にやっていることは、部分的な仕事であっても、それを、全体として総合的に見れば、人間生活の幸福を高める為の、総合的な仕事に一部分をなしているはずであります。



あのアウシュビッツ収容所で、フランクル博士は、希や、人生の先のことが全くない状況でもいつも他者のことを思い続ける人達の存在を知りました。明日ガス室に行くかも知れない極限の状況でも、身体の調子の悪い隣人にパンを残していく人々を、フランクル博士は見るのです。フランクル心理学は、ここで生まれました。



死を見つめる心、最終です。


私が感動したのは、この著書が、余命半年を宣告された後に書かれたことです。


凄いと思いました。余命半年とは、普通、怖さに震えが続き、他者のことなど何も考えられない状況です。ただひたすら、何故・何故・何故と問う時間です。


そんな時に冷徹とも思えるほどに、人生を見つめて、あと例え、一日しか生きられなくても自分が他者の為に出来ることは何かと「問い」続ける態度、それが何よりも大事と教えてくれて居ます。



長くなり失礼しました、最終とします。