水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

あれから14年、忽ちと思うのは被害者ではないからか

以下、何度も同じようなことを書いて来ています、14年ですから14回書いて

来ました、そういう意味では「忽ち」ではないです・・・、

ご興味の無い方はどうかスルー下さい!!



津波に持って行かれた人達、2000数百人が未だ発見されて居ない

そんな現実のまま14年を迎えた、ご家族や友達の片鱗さえ

見つからずに来た14年はどんなだっただろうか


想像すら付かない、永遠の一瞬だろうか、いや逆か一瞬が永遠に

続くのかも知れない



大震災から数日後、川崎の等々力アリーナに、福島から避難してきた

ご家族が約50組、アリーナでの避難生活が始まった


☆これはアリーナでは有りません、お借りしたものです。段ボールで分かれては居ません、

これはこれで大変だと思いました。



段ボールで区切られた空間が、最低限のプライバシーを守っていた、いや、居たのか?


私共は、川崎の市議会議員に呼ばれ、クリーニングのボランティアをして欲しい

と、私は等々力アリーナに出かけた


そこはテンヤワンヤだった、何もかも不足している、都会はちょっと出かけると

直ぐにコンビニがあるが、競技場の近くは緑ばかりでコンビニは無い


市役所職員に怒鳴る人達、謝り続ける職員達、これを聴いて居たらあの言葉を

思い出した


戦争は偉い人達が決めて、死ぬのは庶民なんだ、と


どうか川崎に避難に来て下さい、立派な施設が有りますからと決めた人がいる

多分、でもこの現場には居ない



まあ、それはともかく、大変困ってらっしゃるだろうと私は、洗濯をさせていただき

ます!!と、50件近い段ボールハウスを回った、ほとんどの人達は

無表情だったが、私はビニール袋を置いて行った


私共のパートは全員女性です、どうか恥ずかしがらずクリーニングに出して下さい!!と

、しかし私はその翌日から起きる戦争状態を知らずにいた


翌朝またあの市議会議員から電話が入った、直ぐに来てくれと、物凄い量の

ビニール袋が積み上がっているから、と


満ぱんなビニール袋が約50袋、それもボランティア、私はぞーっとした、

これでは普通のクリーニングは止まってしまう、さあどうしよう


なんて考えて居ても仕方がない、とにかくそれを工場に運びクリーニングを

開始した、それは戦争だった、全部一緒には洗えない袋ごとに洗い乾かす、

そして畳む、さすがに包装はしないが、新しいビニールに入れる


ふと不安が湧いた、何々が無い!!と言われたらどうしようと、他のもの

が混じっていると逆に言われたら、避難民はこれがボランティアとは

知らないだろう


市役所からそれなりの対価を貰っているだろうと、まあそんなことも良いのだが

とにかく、この調子で忽ちの5日間が過ぎた、


その翌日、市役所職員から電話が入った、本当にご苦労様でした!!と、

洗濯機をかなりの台数入れましたので、もうクリーニングは大丈夫

ですから・・・・、ありがとうございました、助かりました、と


この言葉に私は助けられた、本当に助けられた、心ってちょっとでも

支えられる言葉を聞けたとき、折れ曲がるのは防げるのだ


でも思った、私達は良い事をしたのか、いやそんなことは無かった

のだろう、戦争のような五日間、しかし売上はゼロ、これで潰れたら

笑い者だ

私は、パートさん達に感謝を伝えた、本当にありがとうございましたと、

市役所が洗濯機を入れてくれたので、この仕事は終わりましたと


金一封を出したかったのですが、それは無理でした(>_<)


それからしばらくして、避難者たちは何処かへ帰って行ったと、親戚やら

頼れる所に行ったのだろうか、それは一部の人々にとっては

次の悩みの始まりだったのかもしれない



この出来事は、3月11日を迎える度に思いだされる、等々力近くの

クリーニング会社は私共だけではない、でも、その姿を見ることは

無かった


貧乏くじを引いたのだろうか、いや、そんなことはないとは思うが

これはただのめぐり合わせなのだろう、


それ以上でもそれ以下でもない、今でもそう思う



ここまでお読み下さり感謝申し上げます!!