いさむ兄さん
私の一度も逢ったことが無い兄、いさむ兄さん、彼は僅か7歳で逝ってしまったのでした。
その時の母の動揺も、もし私が記憶の天才であれば、母のお腹の中でその不安の振動を記憶していたかも知れません。
彼はトンボ採りに夢中になっていた、その行き先に何があろうと彼にはトンボしか見えなかったのだろう、昭和22年の秋、トンボを追ったまま彼は帰らぬ童となった。
トンボは東横線の線路に逃げ込んだのです、彼もその線路に飛び込むように入って行き、上りの電車に跳ねられたのでした。これは聞いた話ですが、幸いに彼は、バラバラになることは無かったのでした。
☆東横線のこれ以上古い画像は有りませんでした。この画像は昭和30年代と思います。
電車の事故、その多くはバラバラで、何とも痛ましい姿と成ります。しかし彼を遠くで見つけた運転手さんが急ブレーキをかけ続け、しかし間に合わず低速の電車に跳ねられたので、童の姿のままで倒れていたのです。
しかしその兄を母が抱く姿は、それはそれは世の中の悲しみを全部引き受けたような姿だったと、でもその時に私はお腹の中に居たのでした。
いさむちゃん、昨日の検診の後、私は私のお腹の中で転移もせずに頑張っている「新生物」に、彼の名前を付けました。
昨日、検新結果を聴くまでは、生きた心地はしませんでした。1年半前、PSA値(これは癌の基準数値)425という異常な高さを伝えれた私、私より先生が驚き、その場で余命(二年)も告げれたあの日。
その余命まで後半年となったなあと思いながら受けた、昨日の検診結果でした。PSAの正常値は4以下です、10を超えると間違いなくそれは癌と診断されます。この数字から私の数値がいかに高かったか、分かるのです。
先生 ○○さん、レントゲンの結果、浸潤は一年半前のままありますが、転移は有りませ
せんよ。癌は、その場で留まって居ます。
私 はあ、では先生、まだ生きられますか?
先生 ホルモン療法が効いているんでしょう、このホルモン療法で10年生きて居る人
も居ますよ。
私 ああ、そうですか(放心状態の感じで、良い意味の放心でしたが)、会社が再生
するまでは生きなきゃと思っていて、何だかと(涙が出てきました)・・・、
先生 後は今後の治療法ですね、来年1月初めに来られますか?、相談して行きましょう
私はこの時、この無愛想な先生が、しっかりと患者に向かい合っているんだと感じたのでした。先生の善し悪しは、この感覚が伝わって来るか来ないかなんだなあと思いました。
私はお腹を押さえながら、そのお腹に向かって「いさむちゃん」と声を掛けました。今度は長生きしようよと、いさむちゃんだけが元気で大きくなったら、弟の私が逝っちゃうんだから、そうしたらいさむちゃん、直ぐに二度目の火葬場だぞ!!、嫌だろ、と。
だから一緒に生きて行こうよ、一緒にと、そして一緒に、二人の両親が汗水して創建した会社を再生させたいんだ!!と、一度も逢ったことのない兄に、勝手に共存再生を伝えて済まないと思いながら、母が語っていた優しい「いさむ」を抱いた私でした。
追記
私に余命を告げたお医者は、最初に掛かった街のお医者で、その数値を見て驚いたのもこの街のお医者でした。今の先生とは違います。
失礼しました。
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