水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

義姉の思い出

義姉が他界して早、半年が過ぎました。その間、沢山の思い出が心を巡りました、巡って来る思い出に戸は立てられません、そして一つの強烈な記憶が私を覆いました。


それは1985年、今から32年前のことです。私はあるイベントの企画に携わって居ました。そこであれも足りないこれも足りないと、そしてお金も足りない、この足りないづくしの中で、でもお尻は決まって居ました、日本青年館で行うイベントの日時は決まっていたのです。


リーダーが言いました、貴方は脚本を頼みます、貴方はチケットの売り方を考えて下さい、貴方はスタッフを纏めて下さいと、ミーティングが繰り返されました。そして私は、リーダーが言いました、貴方はテーマソングを作って下さいと。


何だかめちゃくちゃで、でもお尻は決まっている、やるしかないかと曲作りがスタートしたのです。でも私は♪が読めません、せいぜい頭に浮かんだメロディを、テープに録音するだけでした。へたなギターを伴奏に入れて、何とかやっつけで書いた詩に曲をつけ、それを録音しました。


そのテープを持って私は義姉を訪ねました、こんな歌を作ったのですが、これを♪に起こして欲しいと・・・・。義姉は当時、東京混声合唱団でアルトを担当しているプロでした、そしてピアノを近所の子供たちに教えて居ました。


☆在りし日の義姉です。



私のテープを聞いた途端義姉は、ピアノに向かい直ぐに歌い始めたのでした、私は驚きました、上手いなあ、そしていい歌だなあと、自分が創ったことなど忘れて居ました。


でもすぐに気付きました、義姉は弾きながら編曲もしていたのです、それは既にピアノ曲となって居ました、す!!、凄い・・・と、これがプロなんだ。


その曲は、そのイベントの最後に流れました、その曲の為のバンドも組まれました。かくパートの楽譜も義姉が書いてくれました。エレクトーン、ベース、ギター、サイドギター
そして合唱曲ともなっていたのです。


それは今も聞こえる あの時の詩


それは明日へ伝える 僕達の心


これが詩の導入部分です、この曲を口ずさむ度に私は、義姉を思いだします。


この「明日へ伝える心」を・・・・。