水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

高校受験の思い出 2

妻が私に言いました、息子には行きたい高校があるって、と。


それは私も聞いて居ました、行きたい高校なんて無い!!、よりは余程増しなことです。何故こんな言い方をするのか、息子の偏差値は最低だったからです。


己の身の丈を知らずに(全く勉強して来なかった)、どうっやって目指す高校に受かるのか、これまで通わせようとして来た塾は、ことごとく断られたのです。風紀を乱すということだったのです。


偏差値40しかない彼が、どうやって65の高校に受かることが出来るのか、私は必死でした。



8月の三者面談、彼の担任は体育の先生、太っ腹のような体格をして居ますが、少しも太っ腹ではなく、とても身勝手な先生でした。成績の良い生徒には良い先生、彼のような生徒には全く無関心だったのです。


その先生と面談は、私の怒りを増長させるに十分でした。


私 あの~先生、息子がこの高校を受けたいと言うのですが、と


先生 ああ、良いですよ、何処を受けようと勝手ですから~


この時この先生、鼻くそをほじって居ましたね。



私は、直ぐに息子をうながし、退席しました。それ以上そこにいると、机をひっくり返すかも知れないと思ったからです。


先生、急にどうしたんだ!!という顔、自分がいったい何をしているのか全然気づかないのです。


息子は私が、尋常でない感じであることに十分気づいて居ました。しかし、彼自身の希望がとんでもないものであることには、気づいて居なかったのでした。



私は、思いました。後約半年で、彼の偏差値を上げる方法があるだろうかと、私が教える?、いやそれは無理だろうと思いました。現実味のないことは駄目だ、でもと思いながら、あることを思い出したのです。


私の友人の娘さんが、高校に受かった話でした。そしてその家庭教師の凄さのことを聞いていたのでした。


その家庭教師は、韓国の青年でした。NHKの韓国語教室の番組にも出ていた青年でした。私と妻は、その青年を紹介して貰いました。



何でも、その青年の祖父は、あの、ハングル文字の作成に努力した人と聞きました。


彼は、家庭教師を引き受けてくれました、それから息子にとっては地獄の特訓が始まったのです。私は、凄い!!と思いました、これがキムチパワーなんだと。


続く・・・・・、