水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

あの頃の私(何故、トモエ学園だったのか)

今となってはあの頃(4歳~6歳くらい)の、自分自身の日常を思いだすことは出来ないのですが、時折私が引き起こした小さな事件が、お袋や親父をハラハラさせて来たと、思い起こして居ます。


一番の事件は、4歳くらいだったか、私の家には三階に物干台があり(クリーニング屋、商売でしたからかなりの広さでした)、私はそこで良く一人で遊んで居ました。


考えて見れば危険極まりない場所、物干し台の周りには手すりはありましたが、小さな私に取ってそれは無いも同然でした。高さは10メートルくらいでしたか、走り回り遊んで居ました。


その様子を、真正面のお医者様がよく視ていて、お袋に注意を促していたとは、後で聞いたのでした。


ある日の物干し台、私はそこで、真下にある風呂の釜の前で、釜に薪をくべながらお風呂を沸かしている職人(クリーニングの職人さん)さんと、何か言い合いをして居ました。


私  ーいやーい、そんな所で何をしているんだ


彼  あ、坊主、何をって見ればわかるだろ


こんなやりとりだったか、私は更に何か言葉を浴びせようと、身を乗り出したのでした、その後は良く覚えて居ません。しかし、身を乗り出したその後に、自分の身体が空中に舞ったのを覚えて居ます。


その後のダイビングの記憶も有ります。


私の背中は先ず二階の屋根に落ちました、そしてジャンプし、そのまま、一階の屋根にまたジャンプ、そのまま彼が薪で風呂を沸かしている地面に落ちたのです。


その地面には、沢山の釘が出ているような薪(木材)が置いて有ったのですが、その木材の間に私は落ちたのです。


その後の記憶はおぼろげでしたが、遠くで「奥さん~、大変です大変ですと」お袋を呼ぶ声、そして間もなく、私を抱きかかえ、鳴きながら私に声を掛けるお袋の声が響いて居ました。


私は半分気を失っていたのでしょう、しかし抱きかかえられたその感触は今でも身体に残って居ます。幸い、命は取り留めました。



こんなことを日常で私は繰り返していたようです。川に落ちたり、自転車でどぶに突っ込んだり、等々力渓谷の川に落ちたりと、数え切れません。その度に怪我もする、体中、疵だらけでした。


☆自由が丘、駅から西へ2分程、正面がバス通り沿いのピーコックストアで、その脇に、トモエ学園の碑が有ります。



この思い出だけでも私は、普通の幼稚園には入れて貰えなかったのかと思います。何故トモエ学園に入園したのか、それは「トットちゃん」とは違う意味で、やんちゃだったのかも知れない、それくらいお袋は私に手を焼いていたのでしょう。


ごめんよ、お母さん、大変だったよね、俺は。


失礼しました。