水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

未だ生を知らず いずくんぞ死を知らず

(このブログもまた、死ぬの生きるのと面倒くさい内容です、ご興味ない方はスルーをお願いします)


☆先日掲載させていただいた「山並み遥か」です、今日の記事に合っている感じがしました。



この表題は、有名な孔子の言葉です。


弟子の質問、先生、死とは何ですか?に答えられたのです。


しかし、この表題の始文7文字(未だ生を知らず)の奥深いこと、未だにこの7文字に対する納得のいく、説明はあまり聞きません。


孔子の言う「生」とは何でしょうか、生き様でしょうか、生きる意味でしょうか、自分でしょうか、自分とは何、いったい誰?ということでしょうか。



そんなことを考えていたら、こんなことが載って居ましたので、紹介したいと思いました。また私は、この言葉で、何かほんの少し腑に落ちた気持ちと成りました。


以下は、孔子の愛弟子「顔淵」が亡くなり、孔子が嘆き悲しむ場面からです。


顔淵は、実に賢い人間だ。彼は竹器一杯の飯を食べ、瓢に一杯だけ飲むだけだ。住むのは、狭い小屋のような家である。こんな生活は、普通の人には耐えられないだろう。


顔淵は、そんな生活でも心は平安で、安定していた。到底、他人の及ぶことではない。誠に顔淵は賢い人間だ。こんな意味だ。


 これは顔淵が亡くなった後の孔子の思いを述べたものといわれているが、彼の生き方である「一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在り。」という姿を絶賛し、それを生きている人に示すことで、今を生きることの意味を考えさせようとしているのだろう。


それは死者が生者を生かすということなのだろう。


私たちは、多くの人と死によって分かたれてしまう。しかし、それは終わりではない。むしろ始まりなのだ。


生きている私たちが、死者の生き方を問い直すことで、自分の生き方を見直すことに繋がればいい。そして新しい生を始めるのだ。
顔淵の死を本気で嘆いた孔子ならばこそ、辿りついた死が生を生かす道だ。この意味を私たちも考えていきたい。



誰もが、この顔淵のような生き方が出来るはずもないでしょう。


でも、そんな高尚な生き方でなくても、死ぬまでに「精一杯」生きたと、ちょっと一生懸命生きたなと、いや本当に駄目なやつだったが、晩年は変わったよなとか、その人の山の高さで、精一杯生きることは大事なのだと思わせられました。


何故それが大事なのか、それを、上の太字が語っているのですね。


以前に、人は生きてきたように死ぬ、と、ある精神科医の言葉を載せました。


そうか、やはり自分もそうなのか、それでは駄目だなあと思う一方で、それでは死に際が悪すぎると、怠惰な人生に小さな針を刺し、今までの生き方に抗い、少しでも「死者が生者を生かす」ことに繋がったら、それが、残され生きる者達への、ささやかなプレゼントになるのかも知れない、と。