水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

会社再生物語 2

いざ、会社再生物語を描こうとしたら、数々の躊躇が産まれました。


それは・・・・、


成果は自分の力、駄目だったことは自分以外の力不足と、そのような物語に成りそうと思った途端、筆が止まりました。それは、このクリーニング会社を昭和9年に創業した、父の人生に重なるからでした。



私の父は、明治の人です、と言っても明治44年の生れですが(笑)・・・


その父は、数えで12歳の時(当時の尋常小学校卒業)、東京は神田に丁稚奉公に故郷を後にしました。この頃の12歳丁稚奉公は当たり前だったと、父は後に語ってくれました、とにかく田舎が貧乏で、その割には沢山の兄弟が居て、田舎に残れるのは長男だけだったのです。


日本全国このような文化が有った時代です、兄弟5人以下なんて少ない方で、12人兄弟姉妹なんて家も有ったとか、これはこの時代に遡らないと理解は出来ないと思いました。


とにもかくにも父は、神田神保町にある洗濯会社に丁稚奉公に入りました。何処へ行きたい、何をしたいなど、そんなことは叶えられる世界では無かった、とにかく腹いっぱい飯を食べたい!!、それしか無かったのです。


後に父は、何故か、神田と言う地に自分が来られたことに感謝して居ました。それは本屋でした、「自分はろくに字が書けなかった、しかしこの本屋街のお陰で、読み書きが出来るようになった」と、私はこの話を何度も聞き、そしてその度に尊敬を新たにしました。


12歳の少年が、読み書きが出来るように成りたい!!と思い続けたこと、これは大変重要なことだったと感じて居ます。そしてそれを実現させたのでした。


☆箱車、話で聞いただけで実際の箱車は知りません、おそらくこのような大八車に箱を載せて、いわゆる「宅配」をしたのだと思います。12歳で車を引き宅配、それだけで凄いなあと思わざるを得ません。当時、クリーニングなんて誰も知らない世界と思います。そんなもの利用するのは、大金持ちしか居ませんでした、洋服を着始めた時代です、それはごく一部の富裕層でした。


上の説明と重複しますが・・・、12歳でクリーニング店に丁稚って、いったいどんな仕事をしたのかと疑問に思われるかも知れません。父は私にその仕事のことを良く話してくれました。俺の仕事は、箱車に品物を入れて、それを引きながら、お屋敷を周ることだったと。


続く・・・・、