会社再生物語 3
菜の花畠を見ると、「菜の花の沖」という小説を思い浮かべる私です。
この題名は、司馬遼太郎の小説ですが、その題名が何故「菜の花の沖」なのかとずっと思って来ました。でも司馬先生の想いを私なんかが受取れるものでは有りませんので、そんなことを考えることも無かったのですが・・・・。
この菜の花の写真、これは房総半島でも伊豆半島でもなく、川崎市の準工業地帯にひっそりとたたずむ小さな畠の景色です。そしてこの畠、私共のクリーニング工場の間近なのです、この写真だけ見ると、周りが煙突からモクモクと煙を出している工場群の側とは、とても思えないですね。
こうやって写真を撮り、菜の花畠を見て居たら、ああ俺は日本人なんだなあという郷愁というか感慨が湧きあがって来るのです。
菜の花と日本人、司馬先生が私が思ったようなことを考えたのかは全く分かりませんが、ロシア人により北方領土に囚われた主人公の高田屋嘉兵衛が、菜の花の咲く日本を懐かしんだことが有ってもおかしくはないと思いました。
私は、この菜の花畠を見ながら、19年前を思いだして居ました。その頃からこの畠は有ったなあと、そして今も変わらずに菜の花を咲かせている、勿論これは人の種まきの結果なのですが、この毎年繰り返される素朴な作業が、何と見て居る者達を安心させるのかと毎年、感じ入って来ました。
昭和9年に24歳で独立創業をした父、その会社はクリーニング会社としては発展をし、いわゆる準大手と成りました。しかし20年前に止むなく廃業となり、沢山の人達にご迷惑を掛けました。
そしてしかし、せめて一部でも良いから、お客様と工場の職人さん達だけはと思い立ち、私は、この川崎の地に移って来たのでした。
その時も、この菜の花は咲いて居ました、何事も無かったように・・・、そして今も同じような笑みを私にくれているのです。貴方は大丈夫だよと、私は毎年ここで咲いているからねと、囁かれているようでした。
父は24歳の創業、私は19年前50歳での創業でした、50歳ってまだ若い!!、無理矢理そう思い込もうとした自分を思い出します。
そしてそれから起きるイバラだらけの道は想像はしては居ましたが、事実は小説より奇なりと、まさにそれを証明するような人生を送ることと成ったのでした。
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