水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

君看よ双眼のいろ

昨夜のテレビ、美の巨人は、京都の大原三千院をやって居ました。


美しい寺院だなと改めて視ておりました。そして阿弥陀如来が紹介されて、少し前かがみで人間の魂を迎えようとしている如来の慈悲に、何とも言えない優しさを感じました。


極楽浄土、それはその頃も今も、人間達が求める本当の幸せの境地であるのかも知れません。それだけ、この世は厳しく苦しい、肉体を持っている人間にはその苦しみの解放を、この世に求めることは困難なことなのです。


そんなことを感じながらふと、この詩を思い出しました。これは江戸時代の白隠禅師の下語(あぎょ)です。それを以下、相田みつお氏が「憂い」という詩で現しておりました。




長いですが、どうぞ



『憂い』


むかしの人の詩にありました


君看よ双眼のいろ
語らざれば憂い無きに似たり


憂いがないのではありません
悲しみがないのでもありません
語らないだけなんです


語れないほどふかい憂いだからです
語れないほど重い悲しみだからです


人にいくら説明したって
全くわかってもらえないから
語ることをやめて
じっと こらえているんです


文字にもことばにも
到底 表せない
ふかい 憂いを
おもい かなしみを
こころの底ふかく
ずっしり しずめて


じっと黙っているから
まなこが澄んでくるのです


澄んだ目の底にある
ふかい憂いのわかる人間になろう
重いかなしみの見える眼を持とう


君看よ双眼のいろ
語らざれば憂い無きに似たり
語らざれば憂い
無きに似たり


みつを



大腿骨骨折で、大部屋に入院、その時に私の斜め前のご老人と知り合いました。


何かと言うと、私を心配して下さり、その階の談話室で、いろいろお話もして下さいました。90歳ちょっと手前でしょうか、でもその双眼からは、力強い慈悲の色を感じました。


何も語らずとも、他人の心の憂い、苦しみ、哀しみを受取っているその双眼は、決して自らの苦しみを語ることをしないのです。あくまでも他人を憂うその双眼はまさに、大原三千院の阿弥陀如来ではないかと、思わせるのでした。


ご老人は、かなり重い病、それを知るよしも有りませんでしたが、お別れの時握手をした時に、またその双眼に触れ、語らざれば憂い無きに似たりと、想いを受けて、お別れをしました。


人間って、良いものですね。



失礼しました。