水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

11人目の職人さんが辞めた時

現在、私共には、たった一人のクリーニング職人(技術者)さんがおります。彼は真面目で、当初から他の職人さんとは交わらず、孤高を通してきた人です。


前のブログ「職人さんの痛烈な一言」の後、一人そして一人と、退職をして行きました。その度に私は、仏壇の父に報告をしました。



何故なら、その職人さん達は、父が田舎の中学の先生から紹介を受け、集団就職で上野の台東体育館に連れられて来た少年達だったからです。


貧しい時代、彼らのご両親が父に聞いたことはたった一つだったと、飯を腹いっぱい食べられるか?、だったそうです。息子に飯を腹いっぱい食べさせたい!!、これが親の願いだった時代でした。


私より10歳くらい上の職人さん達、東京のクリーニング屋で技術を身に着けて来いと、親は息子を東京に送ったのでした。


その中には、立派に技術を身に着け、宅配も覚えて、故郷に錦を飾った先輩も多かったのです。でも誰もがそういった独立心が有った訳では有りませんでした。



さて、数年の間に、多くの職人さん達が辞めて行き、残った職人さんが二人となったある日の朝、私はその11人目の職人さんと相対して居ました。


やり方を変えて欲しいと、頼んでいたことを一つも実行しなかったことに私が腹を立てていて、今日はちゃんとしようと相対したのでした。


私 どうしてやらないのか、約束したでしょう。


彼 今までやって来たことは、どうなるんだ、別に悪い方法ではないだろう!!


私 それは話したでしょう、貴方のやり方では、パートさんが覚えられないんです、と。


彼 俺だって、社長の言う方法は難しいよ、出来ないよ


私 この間は「はい」と、言ったでしょう!!


彼 出来ないものは出来ないよ


私 やって下さい!!、どうしても・・・・


彼 (怒りで顔が真っ赤になり)、出来ないったら出来ない、そんなに言うなら、辞めてやる!!!!


彼は、白い前掛け(洗濯用の前掛け)を取ったかと思ったら、それを私に向けて投げつけました。


辞めてやる!!を繰り返しながら、そのまま彼は去って行きました。


それっきり彼は、工場に姿を現しませんでした。それでも私は彼の退職を会社都合としました。少しでも、失業保険を早く貰えるようにと。


彼との音信は、最後まで残った職人さんを通じて成されました。離職票も、渡して貰ったのです、12人目の彼に。



私は家の仏壇に向かって、父にこの報告をしました。


親父、済まない、でもこれで良かったのかな、親父と共に会社を作って来た人達が殆ど辞めたよ、そしてこの間、良くない辞め方だったが、11人目の彼も辞めました。でも、出来ることはやった積りです、と。


残ったのはたった一人の職人さんです。後は全部、パートさんに変わりました。この間約10年、その一連の行動は、それぞれの卒業だったのかと思い起こしております。


失礼しました。