水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

親孝行の行方 3

山一證券の破綻は1997年でした、その1年前に
サッポロラーメン「どさん娘」熊野本宮店はオープン
しました。


本部の調査では、オープンしても流行らない場所と
太鼓判も押された、ほとんど車が通らない街道沿い
でのオープンでした。


先輩は、その店で山一證券の破綻を知ったのでした。
呆然としたそうです、でも振り返っている暇は
有りませんでした。


親孝行という亡霊、何の為に自分はこの故郷に帰って
来たのか、誰も喜ばない自分の決断は何だったのか
と思い続けながらのオープンだったのです。


先輩自身も、こんなところで流行るはずはないと思っていたのでした、
でも、やるしかない、何としても流行らせてやると。


たった一人の出発でした、しかし店は、思いがけないお客様で
溢れることになったのでした。


確かに走っている車はほとんどないのですが、山から下りて
来る人達がいたのです、それがキコリさん達、そして修験者さん達
でした。


食べるところなんて何処にもない本宮街道、だから彼らは
自ら手弁で働いていたのですが、どうも何だか知らないが
ラーメン店がオープンしたらしいと、下りて来たのでした。


なんだ玉石じゃないかと、先輩をよく知っている同級生も
いたそうです。あの玉石がラーメン店を開いたぞと、
その噂は忽ち広がったのでした。


どさん娘本部も、キコリと修験者までは調査出来なかったのです(笑)



私がその店を訪ねたのは、オープンして3年目の夏でした、
そっと訪ねたのでした。


いや~驚きました、店は満員で、厨房では沢山の人が働いて
いました、あ、奥様だと、若い娘さんがいると、いや本当の
娘さんだと・・・、


そして、お母様がいらっしゃいました、洗い物をするお母様、
目が不自由なのですが、そのお母様をご家族が助けて
いました。



お前が東京の山一證券に勤めている、それだけが自慢だったお母様
、何で帰って来たんだ!!と叱り飛ばしたお母様、でした。


あなたが会社を辞めて田舎に帰るならお別れしましょうと離婚
を迫った奥様、そしてそれに同意した娘さん、そのお二人も
働いていたのでした。


9人兄弟の末っ子の先輩、母親の目が不自由になっても、兄弟は
誰も帰って来なかった、どうしよう、どうしたらよいかと、
相談した相手が悪かったのか、良かったのか、


山一證券がいかほどのものかなんて、父はあまり知らなかったのかも
知れないと(いやそんなアホではないだろう)、でもそこが
どんなに一流であろうと父の指導は変わることは無かった
と、そう思う。


孝は百行の基、そう言い切った父親を今更私は凄い人だと、


その極めて乱暴だと思える指導に従った先輩はもっと凄いと思う。


その言葉が先輩の背中を押したのだと思う、そうしなければ
と思って居た背中を、


でも、従ったその時点から、全部自己責任で生きる、それは当たり前
なのですが、そうでもない人は多い。



山一證券が破たんして居なかったら、この物語はその速度を落とした
かも知れない、でも、それも時間の問題だったと感じる、


一心岩をも通す、そんな気力が先輩には有った、それくらい人の
「決意」は人を動かす力があると、



店は満員、でもたった一人で切り盛りしている姿をじっと見ている
老婦人がいたと、それはお母様だった、ありがとうありがとうって、
毎日息子の後ろ姿に手を合わせていたのでした。


その背中をそっと押したのが、キコリさん達だったのです、その中に
先輩の同級生がいらしたのです。


そしてお母様が一緒に働き始めたことが、東京の奥様と娘さんを呼ぶことに
なったのでした。



この稀有な幸せを知ることなく私の父は他界しました、札幌ラーメン店
がオープンしたことは、病の床で知ったようです、
実際父はどう思っていたのか、それは分かりません。


もしかしたらそんな指導をしたことすら、忘れていたかも知れませんが(笑)



最後までお読み下さり感謝申し上げます、残念ながら今はこの店は
有りません、先輩はこの町の町長となり、働く人となったのです。