見えて来たもの 見えなくなって来たもの
量子論が賑やかです、といっても私には何が何だか分からないですが、私自身もこの量子とやらで出来て居ると聞けば、何々!!と思わざるを得ません。
小さい、とにかく小さい、これくらい小さいと、それを実感することが難しいです。比べるものが有りませんので。でもその動きは、日常で見ることが出来ますね、例えば「光」です。
朝太陽が昇れば、その光で満たされます、今日は雨ですが(笑)、でも明るい朝を迎えて居ます。この光、光子と言うそうですが、量子の一つだそうです。そしてその性質は、ある時は粒であり、ある時は「波」なのだそうです。
人がその粒を見ようとすると波に変わり、見ないでいると粒なんだそうで、この辺りからどう説明されても少しも理解は出来ません。
話は変わります。
自分が病を得て、見ようとしなくても見えて来たものと、見えなくなったものが有るなあと気付きました。
それは自分の「本音」、重い鎧で何重にもカバー(何をカバーして来たのやら)して来た人生、人に自分の本音を悟られまいと、表面を飾って来た人生が、カサブタが剥がれるようにボロボロと取れてしまい、あら不思議、自分でもいつの間にか見えなくなっていた自分の「本音」垣間見るのです。
そして一方、見えなくなって来たものが有ります。それは、体裁とか見栄とか、それらを整えようと必死になって守って来たものが、いつの間にか消えて来たなあと感じます。
お前本当はこんなことが大事だったんじゃんと、自分に問いかけます。
こういう心の動きを思うと、これは本音かと問われ?そうですが、病よ「ありがとう」と思いたく成ります。自分の真実と「対面」すること、これがなかなか出来ないで来ました。
病なんぞに掛からないで、こんな自分と対面したかった!!とは思いますが、それは叶わないことだったと、今は思って居ます。
人が、量子を見ようとすると波になり、見ないでいると粒の姿で存在する、この量子達、私達は確実に、これらの物質で構成されていることは否めません、そしてそれを見ようとすると私達は「波」になるのですね。
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