水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

生きた人間とは?

前回のブログで書きました「生きた人間」、書いている本人が
よく分かっていない、


生きた人間とは、何か


です。


文中では、子供がぶつかりたいのは「生きた人間」と


生きた人間?、何だそれは~って思われるかも知れません。


これは偉い心理学者の先生が言われたこと、だから正しいと
言いたくはないのですが、私は、ふーんと思ったのです。


これって俺のことじゃん!!って、そう思ったのでした。


昔昔のことです。



ある青年の会、しじみの会という名前で、しじみは砂を吐かずに
泥を吐く、そういう意味が込められた会でした。


その会でのことか実は忘れているのですが、私に多くの
質問が集中し、それを上手くかわしながら答えて
居た時、ある仲間の女性が言ったのです。


あなたがそこに居ないと・・・・、見えないと


上手く答えられたと思って居ますよね、野菜党さん
でも私には、あなたが見えないのです、と。


生きているあなたが、そこで苦しんでいるかも知れない
あなたが、見えないのです。


あなたが見えない!!って、俺はここに居るじゃないか
何を言って居るんだ彼女は、と



どんな質問にも上手く答えようとしている私、それは前回の
ブログの、息子に対する私と同じだったのです。


息子は、自分が悪いことを知っていた、それをお父さんは
どう受け止めてくれるのかと、そこまで考えては居なくても
自分の感情を私にぶつけて来たのでした。


それを何の状況も受け取らないで、お前は悪くないと、何にも
悪くないと頭をなでる私に息子は、大いに失望したことでしょう。



お父さんが居ない、今そこに居るのは、お父さんの姿を
したぬいぐるみだ!!と、そう思ったのかも


自分が悪いのに、頭をなでられている自分、何なんだと
自分はどうしたら良いのかって、本能的に感じたと思うのです。



この息子の心の動きは、私の想像です。


息子がぶつかりたかったのはまさに、生きた人間であったろう


今はそれが分かるのです、
私は自分を生きて居なかった、
いつも誰かを生きていた


人に気を使っているようで、それはただ自分を守る為の
手段だった、そうやって生きている内に、自分が何なのか
自分が一番何を望んでいるのかも見えなくなっていた
のです。


やさしさ芝居、それが私だったのです。


私はそこに居るようで、居なかった、居るのはいつも笑っている、ぬいぐるみ
だったのです。



長文失礼しました、アホなじじいの反省でした。