親孝行の行方 2
考は百行の基と、何故父はそのように指導したのか、
そんな学びをしていたのだろうが、酷な指導だった
と思う。
親孝行 したい時には親は無し 墓に布団は着せられず
そんな独り言も記憶している、これは父自身のことなの
だろうと思った。
世の中には、親孝行しづらい親も多い、こちらの都合では
上手く孝行なんて出来ない
先輩も同じだった、親孝行に帰ったなんて、言葉では
言わないが彼の母親には全く響かなかった
(しかし内心は分からない、それは後で分かるのですが)
何で帰って来たの!!、お前は東京に帰りなさい!!と
叱られ続けたという
目なんかたいしたことでは無い、住み慣れた田舎では
目なんか要らないのよと、息子に当たったのです。
母親は、東京の一流証券会社で働く息子が自慢だったと
近所の人達に話していたという、その息子が帰って
きてしまった、それも退職して。
退職し、故郷に帰ることを先輩の家族も喜んでは居なかった
離婚!、寸前の状況で彼は帰ったのでした。
考は百行を執行する為に・・・・
田舎には就職口は無かった、新宮という街まで25キロ程、
その新宮にも仕事には恵まれなかった、一時は保険の勧誘
にも歩いていた、なかなか収入にはならないのでした。
彼は一本通る街道に目を付けた、本宮から新宮まで、熊野川
の脇を抜ける街道に、そこには一軒も食べ物屋は無かった
のです。
☆以前に描いた熊野川上流「ドロ八丁」という名所です、この右側の方に本宮大社があります、先輩の店は、こんな山の中の街道にオープンしたのです、左の方に進むと、日本で初めての温泉と言われる「湯の峰温泉」があります。
ここにラーメン屋はどうなのだろうと、彼はどさん子を運営する
チェーンに勉強に行った、三か月くらいで習得する講座で
大阪まで通ったのでした。
ここで?、ラーメン屋さんを?、う~ん駄目でしょうねと、
だいたい車も通らない、人も居ないとどさん子の担当は
首をかしげたのですが、彼はオープンに向かって
走り始めたのでした。
その頃、熊野本宮は有名では有りませんでした、熊野三山と
名が上がり始めたのは、熊野が世界遺産に登録された後の
話でした。
でも、オープンに漕ぎつけたのです、そしてその店は意外な
人達で埋め尽くされるようになるのです。
すみません、もう一話残します、このオープンに私は東京で
興奮して居ました、頑張れ先輩と!!
手紙、先輩とのやり取りは手紙でした、その手紙を私は今も
大切に保管しています。
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