魂について 柳田国男への、小林秀雄の言葉より 水彩画
☆以下は引用です。ご興味有りましたら、どうぞ
柳田国男とヒヨドリの話について、以下は、小林秀雄の話から引用
その旧家の奥に土蔵があって、その前に二十坪ばかりの庭がある。
そこに二三本樹が生えてゐて、石でつくった小さな祠があった。
その祠は何だと聞いたら、死んだおばあさんを祀ってあるといふ、柳田さんは、子供心にその祠の中が見たくて仕様がなかった。ある日、思い切って石の扉を開けてみた。さうすると、丁度握り拳くらゐの大きさの蝋石が、こんとそこに納まってゐた。
実に美しい珠を見た、とその時、不思議な、実に奇妙な感じに襲はれたというのです。
それで、そこにしゃがんでしまつて、ふっと空を見上げた。実によく晴れた春の空で、真っ青な空に数十の星がきらめくのが見えたと言ふ。
その頃、自分は十四でも非常にませてゐたから、いろんな本を読んで、天文学も少しは知っていた。昼間星が見える筈がないとも考へたし、今ごろ見える星は自分等の知った星ではないのだから、別にさがしまはる必要もないとさへ考へた。けれども、その奇妙な昂奮はどうしてもとれない。
その時鵯(ひよどり)が高空で、ぴいっと鳴いた。その鵯の声を聞いた時に、はっと我に帰った。 そこで柳田さんはかう言ってゐるのです。
もしも、鵯が鳴かなかったら、私は発狂してゐただろうと思ふ、と。 (*蝋石、ロウのように半透明で柔らかい石のこと)
☆冬の朝 以前に描いたものです(今、冬の課題に向き合っています)
この、「故郷70年」の中に書いてある、柳田さんの少年の頃の体験を読んで非常に感動、
ははぁーん、これで柳田さんという人がわかった、この柳田さんの感受性があって、柳田さんの学問があると思った、とは、小林秀雄の話。
つまり 柳田国男は、祠の中の石によって、おばあさんの魂に触れた。
それは、科学的に証明できないような、不思議な体験であったけれど、
そのままをありのまま受け容れる、天性のその鋭い感受性と共感能力が、
あとあとの柳田国男の学問というものを形作っている、という。
さらに、柳田さんのその学問を継ぐ弟子たちはたくさんあるが、他のものは、ちっとも面白くない、柳田国男と、単に学問しかしていない弟子たちとは 根本的に違うのである、ということだった。
引用終わりです。
この小林秀雄文をどう受け取るかは、それぞれと思います。
ただ、おばあさんの魂が宿った石について、何故か私も感動を覚えたのです。
一寸の虫にも五分の魂、と言います、
祠の中の石に、おばあさんの魂が宿っている、これは科学的には説明が出来ない
が、感じたことをそのまま受け入れたことが、後の柳田民俗学を作った
との小林秀雄の解説は面白いと思いました。
魂、私の中の何処かに潜んでいるなら、いや、潜んでいて、もしかしたら
この文章を書かせているのかも知れない、私達は誰もが、幾億年、いや
永遠の旅をしている「魂」と一緒なのかも知れません。
そうであるなら、もっと上手く書かせてよ(笑)!!って
欲が深い私です( ^)o(^ )
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