誰もが心に持っている秤 1
親孝行したいときには親は無し
墓に布団は着せられず
古い言葉ですが、これは親を亡くした時には響きます。あの時にああもすれば、こうも出来たのにと、思うのです。
ということは、いくら親孝行をしようとしても、親と間近に向かい合うと、それが出来なくなってしまうのが私達かも知れません。
先輩は、家族の反対を押し切り故郷に帰った時に、母親に罵倒されたのでした。
何で帰って来たのと!!、お前はお前の家族を犠牲にして、お前の仕事を犠牲にして、それで何で私が喜ぶと思ったの!!と、罵倒されたのでした。
しかし、そのどれもが、先輩の心の中では覚悟のことでした。それも含めて私の親父から言葉が有ったのだと、数十年後に教えてくれました。親孝行は、自分と親の一対一だったらそんなには難しいことでは無い、でもそれも子供が若い内だがと。
家族は東京に残りました、というより、もう離婚寸前だったのでした。
誰もが、心の中に秤を持って生きて居ます。先輩の家族も同じです、しかしそれは、自己を守る、天秤秤なのだと思います。
先輩も秤は持って居ました、でもそれは天秤秤では無かったのでした、客観的に見ると、こんなに付き合いづらい人は居ないのかも知れません。先輩には、社会的価値を載せる秤の一方が欠落していたのかも知れない、いや、それを自ら断ったのだと私は感じました。
これでは家族は適わないでしょう、親孝行が家族より優先する夫を持ったら、それは結構恐ろしいことかも知れません。
続く。
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