朋あり 遠方より来る、
また楽しからずや・・・・
論語の一節ですが、今日はその私の友(朋)と逢う機会が有りました。
束の間の一時、それを胸に刻みながら、これが最後の出逢いかなどと思うのでした。
人は、一緒に働いていればそれは毎日一緒な訳です、夫婦をしていればその仲良さは別にして一日中一緒です、それが例え、一階と二階でも。
しかし友は違います。小学校の頃は、毎日6年間も一緒だったのに、だんだんと音信も途絶えたり、クラス会にも顔を出さなくなったりで、だんだんと疎遠と成ります。
今日逢ったのは、小学校時代の仲間で、唯一この歳まで付き合いが途絶ることが無かった男です。その彼が、ちょっと話を聞かせてくれと、電車に乗り継ぎ、私の住む町までやって来たのです。
お前が先に逝くことは許さないと、どんなに病が進んでいても、何か手立てがあるはずだと、私に知恵を授けに現れたのでした。
そしてこんなことを言って居ました。
誰でも、この歳になると、行く先には大きな滝が待っているだろう。しかし、一見健康で有れば誰もが、自分の人生の先に大きな滝が待ち受けているなんて思わない。
でも、一度深い病を得ると、その病と共に生きるというやっかいな人生が始まる。そのやっかいの先には、大きな滝が落ちて居ることを、受取らざるを得ないだろう。
それが良いんだと、彼は言う。
俺達は己の「人生の転機」というチャンスを、病によって知らされることが多い、最もそんなチャンスを得ても気付かない輩は多いだろうが。
病の人は、その滝が近づいていることを否応なしに気付かされる、そしてそれまでどうやって生きて行くのかと、問われ続ける。
この問われ続けることが、何よりの贈り物なんだと彼は言うのです。
そんなことを聴きながら、彼の小学校時代を思い起こして居ました。偶然でしたが、私の隣に席が決まった彼、気に入らなかったのか、何日も話をしなかったなあ。
でも何故そんな彼と、それから60年も過ぎているのに、付き合っているんだと。
分かりませんが、お互い、嫌われ者だったことは確かだったよな。その嫌われ者同士が今、まだ死ぬなよと、励まし合っていることが何故か滑稽にも思えたりと、忘れられない一夜でした。
そしてやはり今でも、理屈っぽい彼でした、まだまだ元気だ!!
失礼しました。
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