誰もが山登りの途中
投げられたところで起きる小法師かな
私達の人生は、この投げられた小法師のようです、タンポポの種が何処に落ちるのかにも似て居ます。残念な所に落ちれば芽も出せません。
温熱の先生は、仙台に本拠を置きながら、東京は渋谷に第二の拠点を持ちました。小法師が渋谷に降りたとでも言えそうです。
でも、確かな芽は出なかったのかなどと思って居ます。温熱治療は安いです、お金のない人からはお金を取らないなどという、赤ひげ先生にも似て居ます。
無理をなさっていたのかとも、一方では思って居ます。
そうやって、誰もが山登りの途中の姿なんですね。時折垣間見せる顔は、途中で下界を眺めそして、まだまだ先の頂上を汗を拭きながら見せる顔なのかも知れません。
先生は私に、突然のように医院を閉めることを告げて来ました。何故か、大変、苦しまれたのではないかとお察ししました。
私は今、どんな山を、どのくらい登っているのだろうと、ふと思いました。
その途中で出会った、初めて、話が出来る先生と巡り合ったのでした。それなら、もしかしてこれからも、このような先生に出会わないはずはないと思いました。
でも、それには、また一歩一歩この山を、自分では見えないこの山の坂道を、登り続けよう、そうすればまた、信じられる先生に出会える、きっとと、誰かが教えてくれた気がしました。
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