水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

夜行列車の思い出

平成も後少しで終わろうとしている、でも、いつもこの春時期になると思いだすのは、平成ではなく、昭和なのです。


その昭和50年代に、娘は産まれました、妻のご両親にとっては初孫でしたそして生まれたのは紀州熊野、でも暫くして娘と孫は、東京の人と成りました。



孫に逢いたい、初めての孫に、それも娘の娘にと、親の願いが聞こえて来ました。


行こうか、娘を連れて田舎へ、その時娘は8ケ月くらいになって居ました。車は無理だろうから、夜行列車で行こうかと。


★過去に何度か掲載した絵、多分、この頃の娘と妻です。



夜行列車、こう聞くと懐かしいなあと思われる方もいらっしゃるでしょう、夜行列車、今まだ何処かを走っているのかも知れませんが、もう殆ど姿を消したと思います。


その列車の名は紀伊号、東京駅を夜の9時頃出発し、紀伊熊野に翌朝の6時頃に到着します。座席の列車も有ったと思いますが私達は、上下三段のベッドがある寝台車を予約しました。


娘は妻と共に、一番下のベッドに寝ました、いや、寝かしつけようと努力しました。でもそれは叶わぬ夢だったのでした。


娘は、動くベッドに恐怖を覚えたのか、ばっちりマナコ(大きな大きなマナコでした)となり、そして寝かそうとベッドに置こうとすると、ギャーっと声を上げるのです。


それは、不安以外の何ものでもなかったのでしょう。


仕方なく私は、娘を抱っこしてデッキへ出ました、すると疲れているだろう娘は直ぐにその大きなマナコを閉じたのでした。


寝たぞ!!、チャンスだと、妻の横に娘をそっと置こうとすると、ぱっと目を覚まし泣きはじめるのです。それが何回続いたでしょうか、よく覚えて居ません。


私は諦めました、娘をベッドで寝かしつけることをです。


その間列車は名古屋を過ぎ、桑名、四日市、そして松坂を過ぎました。松坂かあ、牛肉弁当だ!!とか脳裏に刻みながら、もう殆ど感覚が無くなりそうな私の腕の中で娘は、安らかに眠りつづけたのでした。


きつい徹夜、受験時代の徹夜は何度かありました、でも勉強ではなくオールナイト日本を聞き続けた徹夜、自由な徹夜でした。


でも、この夜行列車で徹夜するとは、と、白々と明け始めた窓の向こうには、紀州の海がなだらかな海岸と、切り立った崖を同時に見せ始めていたのです。


熊野~、熊野~、間もなく熊野に到着します、お降りのお客様はお忘れ物のないようご準備下さいと、私と同じように徹夜で居られたであろう車掌さんの音声が流れたのです。


自然の明かりに落ち着いたのか娘は、ベッドに置いても、もう怯えることは有りませんでした。でも私の腕は、暫くの間伸ばすことは出来ませんでした。


着いたぞー、熊野だ~、列車がホームに滑り込みました、早朝6時でした。


そして改札口に出るとそこには満面の笑みを浮かべた両親が立って居ました。そしてその四つの目は間違いなく、目覚めた8ケ月の娘に注がれていたことは確かでした(笑)



実家につき私は、刻々とその夕方まで寝たのでした、両腕を投げ出しながら・・・・・。もちろん妻も寝られなかった、実家の畳の上は東京の夫婦が占領したのでした。


失礼しました。