水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

何故、安楽死はいけないのか

この答えが、未だに出ない


つまり、何故いけないのかわからない



母のことを何度も書いて来ました。


末期の肝臓癌、入院してから2ケ月で逝った母
その苦しみは説明も出来ない程、
耐えがたいものでした。


痛かったら手を上げて下さいと、平気で言われる
歯医者さん、でもこれは歯のことですので
それ以上では有りません。



夜が長いんだよと訴えた母、何度かベッドの下の簡易ベット
で、母と過ごした夜、苦しそうにしながらナースコール
する母、私は目を覚まして母の苦悶の表情を眺める
ばかりでした。


そんな添い寝のような見舞いをしたある日の夜中、
私は剥いだ私の布団をそっとかけ直してくれている
母を感じました。


自分が本当に大変なのになあと、私は背を向けたまま
涙を溢れさせて居ました。



母がこの世から居なくなるのは耐え難いことですが、
それよりも母の今の苦しみを解放させて上げたいと
願い続けたのでした。


母はまだ、61歳でした。16歳で嫁ぎ、商売の世界に
飛びこまされて、職人さん達の飯を作り続けた母、
そんな10代の母は、どんな想いだったかと、
それだけでも涙の世界には十分でした。


結局母は、私達兄弟の決断で、転院したのです。超有名な
大病院から、小さな病院への転院でした。


そこで母は、ほんのちょっとの笑顔を私達にくれたのでした。


痛くない苦しくない夜を、神様からプレゼントされたの
でした、それは束の間でしたが、それにより私達の
苦しみも緩和されたのでした。



もう40年過ぎます、今から思えば院長の判断で全てが
決定される小さな病院で母は、緩和治療を施されたの
かと思って居ます、もう少し言うなら、安楽死を
進めてくれたのです。


大病院では全く出来ないこと、患者がどんなに苦しんでも
大丈夫ですかあと看護師が来て、モルヒネ打ちますね、でも
先生の許可が今は降りないのでもう少し待ってねと、


優しく残酷な言葉を投げかけるのでした。


安楽死、私自身も願って居ます、何度かの入院で、夜の
長さは経験しました。たった一人で苦しむ、これは
闇と孤独との戦いでもあるのです。


でもその時いつも思い出したのは、母の姿でした。


ああ、私は母の100分の一の苦しみも得ていないと、
あの時の母のことを思うと、これくらいは耐えられると
母の姿に重ねているのでした。


ごめんなさいお母さん、苦しみのほんの一部も分かって
上げられなかったこと、本当にごめんねと、


そんな風に思えた時間は、決して孤独では無かったと
、母のお蔭でそう思えることに感謝したのでした。


安楽死、決して安易に法制化して欲しいとは願って
居ませんが、絶対思うこと、それは・・・・、


安楽死反対を唱えている人達よ・・・・、


自分自身が死の病となった時、どうか安楽死をと誰もが
願うことを心底、感じて欲しいのです。