私という意識は
今の両親のもとに生れたから有るのだろうか
私を産んでくれた両親、だから、私が居るのかと
くだらない思考かも知れないが
こんなことが頭から去らない
ある日私は私を意識した、それは多分あの日が
最初だったろう
君は絵が上手いね、と、誰をも褒めちぎるであろう
トモエ学園の園長先生の言葉、それは入園試験の
一場面でした。
私は、校庭に有った、汽車の客車を描いた、
その絵まで、頭に鮮明なのですが、その前後の
ことは全く覚えてはいない
私の意識は、そこから始まっている、そして
おぼろげに覚えているのは、横に座ってた母の
笑顔だった、母も喜んでいたと感じたのでした
それが、私が私を自覚した、最初の時間でした
ならば、いつどこで誰の下に産まれても、私は私を意識する
のか、その答えは無い
時折、命の終焉を感じる、でも今はこう思う、
もう人生なんて面倒だから、何処かで生れ変わるなんて
望んではいないからと、祈る日々です。
でも一方で、ある日私は私を意識するのだろう、そう感じている。
それは2050年なのか、いや江戸時代なのかわからない
、人間である保証も勿論ない
私は蟻の巣をじっと見ているのが好きだ、
だから、もしかしたら蟻に生れ変わるのかも知れないが
どうであれ、私は私だと、それが蟻でも、そんな気がする
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