水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

愛は合理性を超える

今回の掃除シリーズ、大変つたない文章、お読み下さった方々に
心より御礼申し上げます。


シリーズを総括させていただきたいと思いました。


50年も過ぎていること、こんなことやってられるかと、今の
時代を考えれば、全然合理的では有りません。


その頃でも、掃除の人達を雇って欲しいと嘆願していたのです。


今なら当たり前のことでしょう、厨房の課員が、ホールの
掃除もするなんてナンセンスですね。


でも、そうはしなかった、それは何故だったのかと。



課長は、赴任早々に朝4時から掃除を始めました。これも
何故なのかは分かりません、誰も聞いて居ませんし、独り言
も言って居ません。


ご家族にはどうだったのでしょうか、あらまた、病が始まった
わ、くらいだったのでしょうか、奥様に確認したことも
有りません。


ただ、私は思います、課長は掃除しながら考えていたのでは
ないかと、


何を?、わかりませんが、ただ半年後私も掃除をスタートした
時に、ずっと心に問うていました、お前は何で掃除してるん
だと。


全然綺麗に成らないのに何で?と、心に問い続けたのでした。


掃除って、よく言われることですが、己の心を見つめる作業
だったのかも知れません、我が心がどれほど汚れている
のか見つめる作業だったと。


そういう意味では掃除は最高の修行なのだと、今は思います。


課長もそうだったのではと、レベルは違うのは当たり前ですが
掃除をしようと決心された時から、己と会話し始めたので
はないかと、思うのです。


自分の心は澄みやかか、掃除で何かを得ようなんてしていない
か、ただ美味しく食べて欲しいと純粋に願っていたのかと
毎朝、問うていた、そんな風に感じます。


それはまるで比叡山の千日業のような祈りの日々だったのではないか
と、そして私はふと思ったのです。


愛は合理性を超えると


ホールが汚れていれば、掃除の当番を決めれば良い、掃除して
くれる人を雇えば良いのです。


でもそれでは、最も想いを感じている場所まで到底届かないと


その場所とは、食堂課員の心であり人生であり、そして学園メンバー達
への愛なんだと



課長が、それらに祈りを込められていたのかは全く分かりません。


しかし、一年掛かり、その世界は変わったのでした。それもごく
自然に、変わったのでした。


私はその現実の姿を、生涯忘れないだろうと、そして今も
問題が起きた時、この出来事を思い出し、何が最善かと
問うているのです。


その最善が、遠回りでも、合理的でなくても、その道を
進もうと思えるのは、この体験のお陰に他なりません。



では、たった一人で始めた掃除が、何の結果も生まなかった
らどうするのか、


きっと益々心を澄みやかにされて、たった一人の掃除を続けられた
のだろうと


喧嘩ばかりしていた食堂課員達がいつの間にか、大学の先生を招いて
学びを開始したのです、それもこの掃除がきっかけでした。


折角、大学も高校もあるのだから、学ばなきゃって(笑)



凄いなあって、学んでいる先輩達を見ながら、一生懸命ホール
掃除をしている高校生を見ながら、改めて思ったのです、


愛は合理性を超えるんだ、と


今でも、あの洗面器を持ってご飯を貰いに来た高校生の
ことを時折思い出します、そして心に言うのです。


ありがとう!!って