水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

人生の味わいは「喜怒哀楽の総量」

人生の味わいは「喜怒哀楽の総量」


こんな言葉を記憶している、いったいどういうこと
だろう。


☆文面とは関係有りません、以前富里に仕事で行った帰りに出会った
 山里の桜です、美しかったなあ、大自然は何もかも飲み込んで
 静かにたたずんでいる、そう感じました。


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*以下記憶です。


苦しいことや悲しいことに直面したとき、
楽しいことや嬉しいことがそれを癒やして
人間性を回復させてくれると考える人がほとんどだ。


でも僕はそうは思わない。


苦しいこと、悲しいことは、時間が経てばいい思い出になるからだ。


悲しいことが起こり、その程度が10だったとする。


悲しみはマイナスの感情なので、マイナス10と表現しよう。


その後、楽しいことが起こってプラス10の感情が生まれる。


そのとき、悲しいことが楽しいことで癒やされ(相殺され)、
プラスマイナス・ゼロになると多くの人は考える。



しかし僕は、マイナス10とプラス10を足すのではなく、
それぞれの絶対値10を加えることで、
総量が20になると考えるのだ。


つまり、この考えにおいては、人生において失敗したことがマイナスにならない。



だから、人生の味わいが喜怒哀楽の総量だとすれば、
いろいろなことに挑戦したほうが人生はより楽しくなる。


マイナスの感情にならないためにリスクを取らないのではなく、
リスクを取ったことで仮にマイナス500になったとしても、
死ぬときには絶対値の500として返ってくると考える。



それを裏付けるように、本田圭佑さんの言葉でこんなのがある。


☆本田圭佑インタビューより
僕は人生は山あり、谷ありだと思っている。
谷はどれだけ深くてもいいんです。


その谷も、できるだけ人が体験したことのないぐらいの谷を
経験した人間だけが高い山に登ることができる。


それが僕の哲学。



山あり谷ありの人生は、そのときは辛く苦しいかもしれない。


山歩きをしていても、高い山や深い谷を登ったり降りたりするのは、
肉体的にも精神的にも苦しい。



それでも、踏破したあとの達成感や爽快感は格別だ。


何の起伏もない平原をひたすら歩いているだけでは、
けっしてその感覚を得ることはできない。



喜びも悲しみも、血となり肉となる
人生の味わいが喜怒哀楽の総量だと考えることで、
チャレンジすることに怯む気持ちを乗り越えようという気持ちが芽生える。



そうは言っても、恐ろしく理不尽な理由で
ご家族を失った体験に傷ついている人に対して、
悲しみもいつかいい思い出に変わるとは説得しにくい。


本当に悲しい体験をしていないから、
お気楽なことが言えるんだと反論されてしまうだろう。



それでも僕自身は、あらゆる喜怒哀楽は人生を、
自分自身を豊かに、人間的に成熟させるものだと信じている。


人生は、どんな人にとっても一つの旅路である。


その間のAでの体験をBでの体験によってなかったことにしたり、
埋め合わせたり、相殺することはできない。


それぞれの体験、経験が、様々な感情や想いを通じて
私たちの人生に奥ゆきや深みを与えているのだ。


思い出しても辛いこと、ほろ苦い想い、今でも恥ずかしい、
情けないことがすべて消えるわけではない。


人生の味わいは「喜怒哀楽の総量」で決まり、辛いこと悲しいことが
マイナス値にはならない。


以上、記憶の引用です。
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谷深し程、山高し、なのだろう、本田圭介さんの言葉は
だから高い山に上れると


しかし私は、高い山に上りたいとは思わない
ただ、自分の周りに起きることは全部、受け取ろうと思う。


受け取って受け取って、所与を正受する人生、
そう有りたい


人生の味わいは「喜怒哀楽の総量」
もし死ぬ間際にこれらの思い出の中に浸れたら、


それこそそれが人生の味わいなんだと思う。