水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

46年前

澁谷暴動事件の容疑者が逮捕とニュースして居ます。


46年前かあと、その間の逃避人生、どんなだったかと考えて居ました。人の幸せの第一は心の安寧、不安ではないこと、その正反対の心が逃避人生には有ったはずです。


中核派、角丸派、その他色々、今から思えばそれは1つのファッションだった、私は何派でも無かったが、何度か捕まりそうになった記憶が有ります。


あの頃は、学生が攣るんでいると、警察官が尋問をして来ました。それはある地方の街道での話、私とT君は車を運転して居ました。私もT君も、同じようなメガネを掛けて居ました、そして色白、やせ型、中核派の学生達と近かったのです。


走っていると遠くに警察の検問です、この頃検問はめずらしくシートベルトに規制なんてものは有りません。これは~と思いました、それは殆どの車は止められて居ない感じだったからです。


案の定、私達は止められました。そして身体検査、お前達どこえ行くんだと、詰問状態でした。そして車のトランクを開けるように言われました。角材とか鉄棒とか入って居ないかと思ったのでしょう。


彼は(彼の車でした)開けました、そこに有ったのはボーリングのボール(笑)でした。
そう、私達はマイボールを持ち、ボーリングへ行った帰りだったのです。


私達は、顔やスタイルは中核派、しかし実際の生活はただのノンポリでした。その頃私達の大学は学生が封鎖中でした、校舎から石が投げられたり、入口はバリケードで入れない状態でした。


☆浅間山荘を鉄球で破壊している写真です。これ中継されて居ましたね。



今から思うと、これも青春だったんだと思いだして居ます。私が卒業して、営業を始めた頃、あの浅間山荘事件が起こりました。それがテレビ中継されていて、お客様の家で昼をご馳走になりながら、その中継を見て居ました。


どんなドキュメンタリーより迫力が有りました。同世代が戦っている!!などと言う想いは有りませんでした、それぞれの人生だったんだと思い返して居ます。


澁谷暴動事件も、そんなことの一連だったと記憶して居ます。私は23歳でしたね。彼はそれから逃亡人生、その46年を想像することは出来ません。


失礼しました。