死を見つめる心 6
キュープラロス受容の5段階、最後の5番目は「受容」だった。
この受容とは何だろう、どういうことだろうと、考えている。
死を受け入れるという受容、岸本氏はどう受容したのだろうか・・・。
私はその絶望的な暗闇を、必死な気持ちで凝視し続けた。そうしている内に、私は、1つのことに気付き始めた。それは、死と言うものは実態ではないということである。死を実態と考えるのは人間の錯覚である。死というものは、そのものが実態ではなくて、実態である生命がないところである、というだけのことである。
死の暗闇が実態でないということは、理解は何でもないようであるが、実は私にとって大発見であった。これを裏返していえば、人間に実際に与えられているものは、現実の生命だけだということである。
・・・死というものは別の実態で有って、これが生命に置き換わるのではない。ただ単に、実態である生命がなくなるというだけのことである。
このような考えが開けてきた後の私は、人間にとって何よりも大切なことは、この与えられた人生を、どのように生きるかということにあると考えるようになった。
いかに病に冒されて、その生命が終わりに近づいていても、人間にとってはその生命の一日一日の重要性は変わるものではない。辛くても、苦しくても、与えられた生命を最後まで生きて行くよりほか、人間にとって生きるべき生き方はない。
この言葉を受容というのかは、分かりませんが、私には結構ショックでした。言葉にするとそうだなと思う方もいらっしゃるでしょうが、現実に私の周りを見ても、死の宣告からこのように生きた人を私は知りません。
でも、おりましたね、このように生きた方が、つい最近・・・・・、
まおさん、です。
この辿りついた生き方を岸本氏は、貫いて行きます。凄いです。
でも、受容、これでさえそれぞれの受容があるのだと、私は私の受容をと思ったのでした。
失礼しました。
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