時折見え隠れする、人生の真実
大層な題名です、でも、そうだなあと思うことが有ります。
先日、テレビを見て居たら、犬の飼い主が、他の犬を抱いたりあやしたりと、やらせの番組が有りました、これって、辛いなあと思ったのです。
案の定、飼い主が自分以外の「犬」に、想いを寄せているような場面に、我こそが主人の愛の源泉と思ってやまない、ワンチャンは、狂う程、泣き叫ぶのでした。
何だろう、これって、私は犬になったことが無い(忘れている?)ので、この叫び狂う彼の気持ちは分かりませんが、その仕草を見る限りは、犬も人間も、そう変わらないんだと思いました。
違いは、犬は素直にその全部を見せるのに、人間はその殆どを心の内に仕舞う、このことです。
★等々力渓谷です、相当しつこい色ですね、すみません。
人と人との関わりは、この犬さんのようには行きませんね。
何故でしょう。
それは多分、これは私の主観ですが・・・・、
人は、自分のことを誰も、本当には知らないのではないか、そう思うからです。誰もが本当の自分を知ることがない、そう思うのです。
こうして私達人間は、晩年になって、はっと気づくことがあるのだと思います。
これで良かったのだろうかと、自分が生きて来て、誰か一人でも喜んだだろうかと、自分は人を苦しめて来ただけでは無いのかなどと、思ってしまうこともあるでしょう。
時折見え隠れする人生の真実、これが顕著に現れざるを得ない状況が有ります。
それは、人生の終わりを告げられるような病なのかも知れません、それにより、そうか我が命も終わるのかと思った時、これは私だけかも知れませんが、こう強く感じたのです。
それが、自分以外の命の大切さ、でした。
誰もが、同じ時代の人生の旅人同士、時折砂漠の中のオアシスで歓談し合う仲間達、でもそのオアシスを出ると、誰も同様に過酷な、未来の見えない旅路が待ち構えているのです。
自分以外の命の大切さを思う心、それは我が命の限界を告げられて初めて感じた想いでした。
情けない、そうでなければ私は、全然そう思えないただの生き物だった、情けない情けないと思いつつ、仕方がない仕方がないと、自分を慰める私です。
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