長崎原爆資料館へ
長崎の原爆資料館へ向かいました。
恥ずかしながら、初めての訪問です。日本人でありながら、余りにも
無責任などと思いつつの訪問でした。
時折ニュースなどで放映される原爆の恐ろしさ、その現実のおぞまじさ
それが普通の日々を送っていた人々を襲った記録です。
★原爆資料館前の像です。
★長崎に落とされた原爆弾、名前はファットマン、こういう命名はまさに
アメリカだなと思いました。
★こちらは広島に落とされた原爆弾、名前はリトルボーイ、ファットマンよりスマート
です。
会場内は撮影禁止ではないので、人々の写真を撮ろうと思ったのですが、どうしても
撮ることが出来ませんでした。
それほどに、内臓をえぐられるような映像だったからです。
背負っている赤ちゃん、すでに死んでいるのに、背負い続けているケロイドの少年。
皮がめくれて骨が露出する人達、水を求めて歩き続ける人々、真っ黒に焼けた死体の
横で、呆然と立ちすくむ婦人の目、どれも凝視し続けることは出来ませんでした。
上記の写真、いまわのきわには、これが現実かと思いました。
今までとは全く違う爆弾であることは、後でわかったのですね、アメリカ軍も実際
にそれがどんなに恐ろしいものかは、知らなかったのです。まさに、実験台だった
のです。
それを落としたパイロットは、気が狂ったとされています。
★ご存じ、平和の像です。高さは10メートルくらいです。
何故、戦争は無くならないのか、その一つは私達が肉体を持つ人間だから
でしょう。
軍人が始める戦争、いつの世にもそれは変わりません。そして死に行くのは
多くの一般人です。
アメリカは、最後の手段としてこの原爆を使用したのです。それも二か所に
、たまたま広島と長崎だったのです。
大きなダメージを与えないと、あの日本人という人種は、最後の最後まで抵抗
を続けると思ったアメリカの最後の手段だったのです。
原爆資料館を訪れる人々は多く、でも驚かされたのはその多くが日本人では
有りません。青い目の人達が食い入るように見つめていた光景が印象的でし
た。
私は思いました。
人間から戦争を無くすことは出来ないだろうと、人間に自我という我が身だ
けが可愛いという心が有る限り、無くならないと思いました。
思いやりなどと言いますが、その多くは思い込みでしょう、本当に人の為に
生きている人は、仰天の星です。
でも、そのほんの僅かな愛の力が、私達の歴史を支えて来たことも確かと思
います。
私は昨日見舞った彼の笑顔を想い起しました、もう自分は長くないと悟って
いる彼、何もかも投げやりになってもおかしくない心と思いますが、でも、
彼は違いました。
しかし、たった一人になった時には、涙が溢れるでしょう。
そう思いつつ、どうしてもあの笑顔が忘れられず、その他生なエネルギーに
感謝せざるを得ませんでした。
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