命名への想いは何処に
心愛ちゃん、本当に残念ながら亡くなってしまいましたが、この文字を観た時に思いました。両親か、そのまた両親か、いずれにしても誕生した時には深い歓迎を受けた名前だと。
命名への想いが、どれほど深いのかは分かりません、心は見えませんね。
さて、昔はどうだったのかと、兄弟姉妹10人なんて当たり前の時代の命名はどうだったのかと思いました。
〇〇トメさん、そんなお名前の女性が入社して来ました、40年以上前の話です。もうお分かりでしょう、もうこれで「止め」ようと決意が現れたお名前でした。
でも、妹がいると(笑)
でもなあ、もう少し工夫出来なかったのかと、ちょっと思ったのです。
私の大叔父、東京は神田で、おそらくもしかしたら日本で最初の洗濯店を開いた人です。父の叔父に辺り、父は12歳でこの神田の地に丁稚奉公の人と成りました。
その大叔父の名前が、又三郎、あの風の又三郎と同じでした。
この名前のことを父が晩年私に話してくれたことが有ります。
大層立派な名前に聞こえるのだが、あまり大したことはないよ、と。叔父は末っ子の男の子で、親たちはこう思ったらしい・・・、
また、男の子かと(残念感を感じます)
つまり、また(又)男の子(三番目の)、それで「又三郎」だったと。
また出来てしまったか、もうこれで止めようと、トメさん、また男の子かと又三郎、でも、その又三郎大叔父は、日本で最初であろう「洗濯店」を成功させたことは偉い!!と思いました。
生れた子供への想いが、名前に現れているとも言えますし、名前は番号のようなものと識別出来れば良いと、想いとは違う場合もあるのでしょう。
失礼しました。
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