水彩画 徒然なるままに

自然の光と影を求めて、水彩画を描き始めました、そして懐かしい思い出もと思いました。しかし、ただの自己満足です、興味のある方はどうぞ

言葉の力がもたらしたもの

言葉の力と言います、それは本当だと思った経験をお話しします。


でもこれはマイナスの力です、良くない力ですので、ご興味ない方はスルーして下さい。



母の葬式での話です(36年前ですから、もう話しても良いかなと思いました)。


母は、クリーニング会社の女房で、いろいろ活動はして居ましたが、母が亡くなって私は大変驚いたのです、そして私は母の何を知っていたのだろうと思わせられました。


母の葬儀は、今のようにセレモニーホールではなく、自宅でやりました、それは父の希望でも有りました、でも、それは間違いだったと後で思ったのでした。


せいぜいいらしても100人くらいと思っていた弔問客は、何と500人となったのでした。寿司も何もかも足りなくなりました、それより、手伝っていた、妻や姉や、親族が、もう駄目だと悲鳴を上げたのです。


母は生前、どんな交流をしていたのか、後でだんだんと分かっては来ました、悪く言うと女親分だったのです、多くの人達が、母を慕っていた、それが分かりました。


父はそれを余り知らなかった、そして私もです。




話は、それとは離れます。


その葬儀もたけなわで、いよいよ出棺と成りました。


セレモニーホールではないですので、出棺の場所は、家の前の道路です。その道路に、500人からの人が溢れました、警察も整理に来たのです。


その溢れた人々に向かい、葬儀委員長(母の従兄弟)が挨拶をしたのです。


彼は、開口一番、溢れる人々に向かってこう言ったのです。



本日は大変「おめでとうございます」と。



これは、聞いた方もざわざわとし、発生した叔父も、今自分は何を言ったのか、何かとんでもないことを言ってしまったのではないかと、それは分かったのでしょう。


その後、言葉を繋ぐことは出来ませんでした。


ざわざわしたその雰囲気を、葬儀会社のメンバーが何とか納めました。そして、何とか出棺のホーンを鳴らしながら霊柩車は出発出来たのでした。



母の従兄弟、その翌年に亡くなりました。何度も何度もすまないすまないと言いながら、亡くなったと叔母から私は言葉をいただきました。


咄嗟に出てしまった言葉に、叔父はその後一年さいなまれたのでしょう、私は叔父に、お辛かったでしょう、でも、ありがとうございましたと、心でお礼を伝えました。